現代も残る、芸能界、河原者への差別2014/01/20 06:31

 映画監督の篠田さん、映画界で働く人々は「活動屋」と呼ばれ、映画のこと は「写真」、たとえ仕事が深夜から始まってもカタッフは「お早うございます」 と挨拶するのが「しきたり」だという。 この「しきたり」は、先行する歌舞 伎・浄瑠璃界の慣習から来ている。 「お早うございます」を口にした時から、 日本に古来伝えられてきた「しきたり」の残る芸能界への加盟、つまり一般人 とは異なる通過儀礼を果たしたと感じたそうだ。

 中世という時代、国家、貴族、寺社、武家などが、それぞれの荘園を持って いた。 荘園の支配が及ばない「すき間」、梅雨時になると水没してしまう土地 が「河原」だった。 中世から近世に至る権力は当然、荒蕪地として租税を取 り立てることができないし、人が定住することも困難だった。 この無税の土 地に住みついた人々は、政治的敗者の処刑や餓死者の遺体処理、そして皮革の 細工などを生業とし、「河原」でくり広げられる死穢の禁忌を引き受けることで 税を免ぜられ、常民から隔離された。 庭師や、藍染をする青屋(あおや)も、 同様な差別の対象だった。

 驚くべきことと書いたのは、河原乞食、あるいは河原者という差別語を現代 人である篠田正浩監督自身が直接耳にし、経験した事実だった。 監督の夫人 は女優岩下志麻、その伯母が前進座の河原崎長十郎の妻しづ江である。 1960 年代にテレビの仕事で監督夫婦と伯母が大阪に滞在していた折、長十郎の贔屓 筋の紹介で、桂離宮を飛び込みで見学できることになった。 胸を躍らせて出 かけたが、受付の老婦人は記帳した姓名と肩書きを見るや、「河原もんはいかん」 と言って、岩下志麻と河原崎しづ江の入場を拒絶した、という。

 監督が司馬遼太郎原作の『梟の城』(1999年)撮影中、伊賀の忍者同士が 四条河原の芝居小屋や見世物小屋の人ごみにまぎれて暗闘する場面で、バック の音曲効果に壬生狂言の囃子を使おうと考えた。 ところが保存会から、「われ われが伝承している狂言は重要無形文化財で、河原乞食の芸とは違います」と 拒絶された。 結局は、大蔵流狂言の茂山千之丞一門が出演、散楽(雅楽に対 して民間の舞楽)指導をしてくれたのだが…。

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