「『暗い昭和』に至る」原因を作ったのは、誰か ― 2014/04/21 06:32
18日に書いた朝日新聞「文化の扉 歴史編」の「福沢諭吉」にも、「安川寿 之輔名古屋大名誉教授は「食うか食われるかの帝国主義の時代、福沢は食う側 の立場で、侵略合理化のためアジア蔑視を言い募った。明治の同時代人からも 『法螺を福沢、嘘を諭吉』と批判されている。『暗い昭和』に至るナショナリズ ムを先取りした」と指弾する。」とあった。 その点も、コメントしてみたい。
私は2012年3月のこの日記で、「福沢の近代化構想は実現したか」という問 題について、今までの読書や耳学問を整理する形で、考えてみた。 それは3 月11日の「漱石が『坊っちゃん』を書いた理由」に始まり、12日「『坊っちゃ ん』の文明批評」、13日「漱石は現代日本を書いた」、14日15日16日「福沢 の近代化構想は実現したか(1) (2) (3)」、17日「辻井喬さんの「日本人のゆく え」、」18日「辻井喬さんの「民主主義の実体化」」であった。
そこで浮かび上がって来たものは、安川寿之輔教授のいう「『暗い昭和』に至 るナショナリズムを先取りした」のは、福沢諭吉ではなく、福沢を排斥した明 治政府の側であったということだ。 福沢は、まず地方民会の充実と地方分権 の確立を唱え、自由民権運動が拡大すると、もっぱら国会を開けという議論を 展開、イギリスモデルの議院内閣制を説いた。 危機感を持った伊藤博文、木 戸孝允、井上毅らは、明治14年の政変を起こして、ドイツ型の帝国憲法によ る天皇主権の国家体制をつくる。 福沢の近代化構想は、明治14年の政変が 大きな転換点となり、挫折してしまう。 教育政策は、教育勅語によって、知 育から福沢のいう「儒教主義」の徳育へと転換した。 女性像についても、富 国強兵の国家によって、「女大学」風の良妻賢母が国を担う女性の役割として位 置づけられた。 それは日清、日露の戦争を経て、特に顕著になり、国民総動 員体制へと向ったのだった。 そして『三四郎』の先生の「この国は亡びるね」 という予言が、太平洋戦争の敗戦で実現してしまう。 イギリスモデルの議院 内閣制は、明治の天皇主権の帝国憲法下では実現せず、象徴天皇制と同じ『帝 室論』の考え方とともに、戦後の日本国憲法まで待たねばならなかった。
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