「与太郎」さん、「見習うべき人間像」2024/03/06 07:08

 第668回落語研究会のプログラム、田中優子さんの「新・落語掌事典」(二四八)の「与太郎」の解説が、すこぶるつきの痛快だ。 「与太郎」を調べると、「でたらめ、嘘つき、ボンクラ、たわけ、うすのろ、間抜け」などの、類似の形容詞(?)が満載だけれども、これは「生産性」などというものに価値を置く、狭い人間観を持つ者が書いたのだろう、と断じる。 落語における「与太郎」の人格設定は、江戸時代特有の多様な人間観に由来するのだというのだ。

 それは、主体性がないように見えるが一徹(頑固)であり、罵倒されても決して感情むき出しの暴力沙汰にはならない。 馬鹿げたプライドは持たないのだ。 そして、近現代人とは全く違う世界を生きているかのようだ、とする。 現代人の多くは、手段でしかない金銭を生きる目的にしている。 金銭の獲得能力を他者と比較し、他者の評価も気にする。 その類のストレスは外圧だと思っていると、落とし穴にはまる。 実は内面にこそ自分を責める根源があるのだ。 「与太郎」はその類のことは意に介せず、自分自身であり続ける。 見習うべき人間像だ、と田中優子さんは書いている。

 私は、ずっと「ボーーッと」「世の中、ついでに生きている」と、言ってきた。 つまり落語の「与太郎」である。 金銭を生きる目的にしていないし、一徹(頑固)に「生産性」と無縁の、「等々力短信」やブログを書く、同じことを長い間つづけている。 「等々力短信」第1160号(2022(令和4)年10月25日)は「世の中、ついでに生きてる」という題で、鷲田清一さんのコラム『折々のことば』から、いろいろとならべてみた。 そのなかに、古今亭志ん朝があった。 「最終目的は「世の中、ついでに生きてる」というような、たかが噺家というとこね、そう思うところに早く行きたいわけですよ。 古今亭志ん朝」2376(『世の中ついでに生きてたい』)。

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