林望さんの「福沢にとっての『女性』」 ― 2024/03/25 07:11
23日は、福澤諭吉協会の土曜セミナーで、林望さんの「福澤先生にとって『女性』はどういう存在であったか」を聴いてきた。 案内にあったご本人の講演概要は、「福澤先生は、一生のあいだ常に女性の尊厳と教育の必要を説いてやまなかった。 それは、当時の社会的一般常識とはいかにかけ離れた先進的な思考であったか。 そして、その思想の拠ってきたる所以は奈辺にあったかということを当時の文献を参照しながらお話ししたい。」だった。
林望さんは、清家篤理事長に座って話すように促されたが、山崎闇斎は棍棒を持ち床を叩きながら話したという、棍棒で交詢社の床を叩くことはできないけれど、その気力にならい、立ったまま話すと、終始立って講演を続けた。 『女大学評論』の序文(明治32年2月)で、長男福沢一太郎は、家厳(父)の女性についての考えは、一朝一夕のものでなく、祖父百助の気風が家庭に浸潤して一種の家風となったもので、福沢の家では親子団欒の間に、例えば「妾」「女郎」などの言葉はまったく口にせず、本書で論じたことの如きは知れ切ったこととして、親も説ききかせず、子供が聞いたこともなかった。 父は大患がようやく峠を越し、なお半眠半醒の間にも、しきりに女性論を口にしていた、脱稿は発病の6、7日前であった、と記した。 福澤先生の女性論についての気力は、最晩年にも衰えず、烈烈たるものであり、その生涯を通じたものであった。
父百助は真面目な人だったが、45歳で亡くなった時、福沢は3歳で、その人柄について、絶えず母から聞かされて育った。 大坂から中津に帰り、家では周囲の人が行く芝居(悪所)には行かず、話も出ない。 母と三人の姉の中で育ち、女性は尊敬すべき存在であり、初めから女性蔑視はない。 福沢の女性尊重は、幼児体験、原体験に根ざすもので、それは生涯変わらなかった。
福沢の女性論は、福澤諭吉著作集 第10巻『日本婦人論 日本男子論』や、西澤直子さんの『福澤諭吉と女性』(ともに、慶應義塾大学出版会)に詳しい。
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