日本初の近代水道、閉館した横浜水道記念館2024/05/18 07:00

 三田あるこう会の「陣ケ下渓谷公園」の散策で、横浜市保土ヶ谷区の上星川駅から川島町を歩いたのだが、近所には横浜市水道局の西谷浄水場があり、その隣接地には、かつて横浜水道記念館や水道技術資料館があった。 しかし、新型コロナウイルス感染拡大の影響で臨時休館した後、2022年からの西谷浄水場再整備事業に伴い、2021年末で全面閉館してしまった。

 横浜は近代水道発祥の地である。 横浜水道記念館は、近代水道100周年を記念して1987(昭和62)年に、水道をテーマとした博物館として開館していた。 横浜の水道の歴史は、YouTubeの「横浜水道局 近代水道創設の道のり」(5分)が手ごろだ。 2016年5月14日放送の『ブラタモリ』、桑子真帆アナが近江友里恵アナに交代して3回目に、「横浜の秘密は“ハマ”にあり!?」があり、横浜の近代水道発祥を扱っていた。 当日記の、「横浜の水、日本初の近代水道」<小人閑居日記 2016.8.25.>に、横浜水道記念館の「水道創設記念噴水塔」のことも書いていたので、再録する。

    横浜の水、日本初の近代水道<小人閑居日記 2016.8.25.>

 昔の横浜駅である桜木町駅近くの掃部山公園の崖下に、水が湧き出ているところがあって、その民家の脇に入れてもらうと、鉄道のために掘った横井戸が現れた。 蒸気機関車を動かすためには、大量の真水がいる。 昔の横浜駅付近は海岸だから、井戸を掘っても塩分を含んだ水しか出ないからだ。 ローム層の下にある、水を通しやすい礫層と、水を通しにくい泥炭層との境い目から、水が滲み出ている。 この横井戸は、鉄道湧水なのだった。 タモリは100倍に膨張した蒸気が、蒸気機関車のピストンを動かす働きを、近江友里恵アナに説明した。 「ジョシ、ダンシ、ジョシ、ダンシ! 女子と男子の協力で動く」と。

 開港当初、“ハマ”横浜村500人と吉田新田の田圃だった横浜は、明治15(1882)年には人口が7万7千人にも増加した。 深刻な水不足に陥ったのだ。 そこで『ブラタモリ』一行は、尻こすり坂という急坂へ行く。 野毛山と藤棚方面を結ぶ西区西戸部町1丁目付近。 地図に水道道とある。 明治20(1887)年、相模川の取水口から野毛山の配水池までの、44キロのアップダウンを、逆サイフォンの原理の自然の力で、水を引いてきた日本初の近代水道だ。 129年後の現在も、横浜中心部の約10万世帯に水を供給しているという。

 明治20年、近代水道というので、私がすぐに思い出したのは、今まで、しばしばこの日記でも書いてきたW・K・バルトンのことだ。 ただ、バルトンの来日は、まさにその明治20年なのである。 横浜市水道局のホームページを見ると、日本初の近代水道である横浜の水道の顧問は、英国人技師H・S・パーマーだった。 海を埋め立てて拡張した横浜は、井戸を掘っても塩分を含んで良質の水は得られず、飲み水に適さなかった。 明治10(1877)年、12年、15年、19年にはコレラの大流行もあった。 神奈川県知事は、H・S・パーマーを顧問として、相模川の上流に水源を求め、明治18(1885)年近代水道の建設に着手し、明治20(1887)年9月に完成(三井取水所、野毛山浄水場)、10月17日に給水が開始された。 横浜が発祥の地となった近代水道とは、川などから取り入れた水をろ過して、鉄管などを用いて有圧で給水し、いつでも使うことのできる水道をいう。

 昭和60(1985)年厚生省選定の「近代水道百選」に横浜市の水道施設が4つ選ばれている。 相模原市緑区青山の「旧三井用水取入口」、「旧青山取入口と沈でん池」「城山ずい道」「水道創設記念噴水塔」だ。 「水道創設記念噴水塔」は、日本近代建築の父と呼ばれ、鹿鳴館や山手聖公会などを設計したジョサイア・コンドルにより選定され、英国のアンドリュー・ハンディサイド社で製造された。 鋳鉄製で高さ約4・4メートル、重さ約1・3トン、イルカ、ライオン、葉アザミなどの模様が施されている。 現在は横浜水道記念館(保土ヶ谷区川島町)に保存されている。 水道創設100周年を記念して、レプリカが製作され、港の見える丘公園と、創設当時の水源地であった相模原市緑区(もとの津久井町)に設置されている。