小林一三、私鉄経営モデルの原型を独自に創る ― 2025/01/27 06:57
私は小林一三が、渋沢栄一の田園都市株式会社の経営に参画していたこと、小林一三を通じて五島慶太がこの事業に協力し、それが今日の東急につながったことを知らなかった。 加藤秀俊さんが初期に書かれたものを読んで(何人かの著者による本だったが、題名を思い出せない)、小林一三が、阪急東宝グループの創業者で、鉄道を中心とした都市開発(不動産事業)、流通事業(百貨店)、観光事業などを一体的に進め、相乗効果を上げる私鉄経営モデルを独自に作り上げたことを知った。
小林一三は1873(明治6)年、現在の山梨県韮崎市の裕福な商家「布屋」に生まれたが、すぐに母が死去、父とも生き別れたため、おじ夫婦に育てられた。 1888(明治21)年2月、慶應義塾に入り、塾構内の塾監・益田英治の家に寄宿、1892(明治25)年慶應義塾正科卒業。 三井銀行に入り、34歳まで勤め、東京本店調査課主任にまで昇進した。 日露戦争終結後、三井物産の大物飯田義一や、かつての上司で北浜銀行を設立した岩下清周に誘われ、大阪で岩下が設立を計画した証券会社の支配人になるため1907(明治40)年、大阪に赴任したが、恐慌に見舞われ証券会社の設立は立ち消え、妻子を抱えて失業する。
その頃、鉄道国有法によって国有化された阪鶴鉄道(現在のJR福知山線)の関係者が、大阪の梅田から箕面・宝塚・有馬方面への電気鉄道路線を敷設する会社を計画したが、恐慌で全株式の半分も引き受け手のない苦境にあった。 小林は、この箕面有馬電気鉄道の電鉄事業の有望性に注目し、岩下を説得して北浜銀行に株式を引き受けさせることに成功、1907(明治40)年10月設立された箕面有馬電気軌道の専務となり、経営の実権を握る。
箕面有馬電気軌道は1910(明治43)年、有馬まででなく、現在の宝塚本線・箕面線の区間で開業する。 これに先立ち、沿線の土地を買収し、郊外に宅地造成開発を行うことで付加価値を高めようとし、分譲を開始した。 小林は、「大衆向け」住宅、サラリーマンでも購入できる、当時はまだ珍しかった割賦販売による分譲販売を行い、成功を収める。
同年11月には箕面に動物園、翌年は宝塚に大浴場「宝塚新温泉」、1914(大正3)年4月には宝塚唱歌隊(後の宝塚歌劇団)を創り上げ、沿線を発展させていく。
沿線開発は、乗客の増加につながり、続いて神戸方面への路線開業に動き出すのを機に、会社名を阪神急行電鉄と改め(「阪急」の誕生)、神戸線などを建設し、大阪・神戸間の輸送客の増加とスピードアップを図った。 1927(昭和2)年、小林は社長に就任した。
また1920(大正9)年には、日本で初めてのターミナル・デパートを計画、路線の起点となる梅田駅にビルを建設、1階に東京から白木屋を誘致、2階に阪急直営食堂を開業した(加藤秀俊さんは、このデパート食堂のアイデアを高く評価していた)。 1929(昭和4)年3月、新ターミナルビルの竣工に合わせ「阪急百貨店」を開店した。
1929(昭和4)年には、六甲山ホテルの開業でホテル事業など派生事業も拡充、1932(昭和7)年の東京宝塚劇場、1937(昭和12)年の東宝映画の設立(1943年に両者は合併し、現在の「東宝」)といった興行・娯楽事業、1938(昭和13)年の第一ホテル(東京・新橋)の開設と、阪急東宝グループの規模は年々拡大の一途をたどった。
小林一三が独自に開発したこの私鉄経営モデルは、後に全国の大手私鉄や民営化したJRが採用し、日本の鉄道会社の経営手法に大きな影響を与えたのである。
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