モネ、シニャック、クリムト、コラン、ゴッホの「ジャポニスム」2025/07/26 07:05

 1867(慶応3)年のパリ万博に、1千万人が来場、日本は公式参加し、工芸品などを展示したが、中に肉筆画の浮世絵、美人画50枚、風景画50枚があった。 だが閉会後、この「パリ万博出品肉筆浮世絵」は行方不明となり「幻の浮世絵」と呼ばれていたが、その中の一枚が二年前、ポルトガルの古書店主によって発見された。 國輝《鎧の渡し》、雪が降る冬の日本橋、対岸に蔵の並ぶ河岸の風景だ。

 この万博には、清水卯三郎が檜造りの茶店を作り、柳橋の芸者を三人連れて行って芸や給仕をさせた展示が、大評判になった。 「フジヤマ、芸者」の起源といわれる。 着物や調度品など、エキゾチックな風俗、女性からの風俗が、興味を呼んだ。 風俗画家が、この芸者三人、内一人をヌードで描いている。 絵画の部門では、風俗画家たちが異国趣味の多くの絵を描くことから、まず出発した。

 クロード・モネは、ジヴェルニーの食堂の壁に、浮世絵のコレクションを飾り、池には日本の睡蓮を取り寄せて、重層的に描いた。 馬渕明子さんは、クリムトは日本の金屏風や武具などの装飾性に注目した。 ちょうど、表現における革新を探していた時に出合って、コレクションした、と。 三浦篤さんが研究したラファエル・コラン(黒田清輝に西洋画を教えた)は、1千点の浮世絵をコレクションし、鈴木春信好きで、その作品でも、上品な若い中性的な男女を、淡い色調で描いている。

 ポール・シニャックには、着物姿で、刀を振りかざしている、ご機嫌な写真がある。 孫娘(?)の研究家は、シニャックの浮世絵コレクションを保管し、シニャックが浮世絵から大きな影響を受けたことを指摘した。 色が明るく、透明で、水平線のうつろうところなど、平坦な絵でも色が振動していると、点描の新しい可能性を、そこに見出した、と。

 ゴッホは、200点の浮世絵を持ち、構図、図柄、パターン、とくに配色に注目した。 和紙は、色を揺らめかせると、この色の理論家に、インスピレーションを与えた。 幅広い「ジャポニスム」の中で、究極はゴッホ。 《タンギー爺さん》や《花咲く梅の木》で、浮世絵の模写もしている。 日本に憧れ、35歳で浮世絵の色を求めて、アルルへ行った。 《ボンズの自画像》に見られるように、思想性、宗教性までの「ジャポニスム」。

 画家たちは、日本の浮世絵の、「近接拡大と切断」、「非対称性の効果」(葛飾北斎の≪神奈川沖浪裏≫)に、大きな影響を受け、伝統的絵画からの自由と解放を得て、新しい芸術表現を生み出した。

なお、パリ万博と、その次のウィーン万博については、下記を書いていた。
「徳川慶喜、パリ万博大作戦~600万ドルを確保せよ」<小人閑居日記 2021.7.4.>
薩摩藩の妨害で600万ドル調達に失敗<小人閑居日記 2021.7.5.>
渋沢栄一、パリ万博へ<小人閑居日記 2021.7.9.>
1873(明治6)年、岩倉使節団とウィーン万博<小人閑居日記 2021.9.25.>
ウィーン万国博覧会の日本館、神社と日本庭園<小人閑居日記 2021.9.26.>
「ウィーン世紀末のジャポニスム」<小人閑居日記 2021.9.27.>

「新・ジャポニスム 西洋を変えた“美の波”」団扇絵2025/07/25 07:11

 『日曜美術館』7月6日放送の「新・ジャポニスム 西洋を変えた“美の波”」が興味深かった。 美術史研究の第一人者という三浦篤大原美術館館長と国立西洋美術館前館長の馬渕明子さんの対談だった。 私は、馬渕さんを知らなかったが、モネやクリムト、工芸や演劇からジャポニスムを研究したそうだ。

 従来、浮世絵がヨーロッパにもたらされたのは、輸出された茶箱に包装用に使われていたからだという話は聞いていた。 この番組では、団扇絵に注目していた。 1867(慶応3)年、日本のパリ万博出展を機にヨーロッパで日本美術の大流行が起き、安価な団扇絵が1年に80万本輸出されるなど、ブームは画家たちはもちろん、一般人にも広がった。

 フランスのコレクター、ジョルジュ・レスコヴィッチさんは、広重の作品を始め130点の団扇絵をコレクションしている。 団扇という日用品に、高い芸術性を込めていて、偉大な芸術家が手がけている。 遠近法でなく、平面的な画像が、まるで3Dのように重なっている。 大胆な画面の配置、デザインも素晴らしい。 フランス人は、団扇を壁に飾っていた。

 クロード・モネに《ラ・ジャポネーズ》という着物を着た妻をモデルにした作品がある。 妻は金髪で、身体をねじって扇子を広げ、赤い着物の上半身には紅葉が、裾に向って黒く刀を二本差した武者が描かれ、壁にはたくさんの団扇が飾られている。

 エドワール・マネにも、団扇を部屋に飾っている作品がある。 ルネッサンスから500年後、非常に確固たる世界を、ちょうど、画家たちが崩そうとしていた時期に、団扇などの浮世絵が役立った。 浮世絵は、自由がいい、大胆がいい。 芸術の民主化、日常の生活のなかに美術を取り込んでいる。 馬渕さんは、別の文化を吸収するエネルギーは、西洋文化の力でもある、と言った。 三浦さんは、フランスの研究者に、日本のデパートの包装の仕方などの文化(マイナー・アート)を指摘されたという。

新発見の若冲と応挙の合作屏風2025/07/15 07:09

13日のNHK『日曜美術館』は「ザクザク!日本美術 知られざる傑作を掘り起こす」、大阪中之島美術館の「日本美術の鉱脈 未来の国宝を探せ!」展を、この展覧会を監修した山下裕二さんの解説、ゲスト井浦新さんで取り上げた。

一番最後に見たのが、新発見の伊藤若冲と円山応挙の合作屏風。 若冲と応挙は、今まで交流した証はなかった。 当時の京都で第一位の画家といわれた応挙と、十七歳年上の若冲、その二人の合作屏風は、まさに夢の競演である。 金箔張りをバックに、墨で描かれている。 円山応挙は《梅鯉図屏風》天明7(1787)年。 伊藤若冲は《竹鶏図屏風》寛政2(1790)年以前。 応挙の鯉は、立体的に描かれている。 若冲のは、雄鶏を雄渾に大きく、雌鶏と雛を描き、若冲得意の虫食いのある竹の葉を配している。

この合作屏風を見た辻惟雄さんは、こんなのがあったんだ、保存もいい、驚いたと大喜びした。 そして若冲の代表作だ、《動植綵絵》、西福寺(《仙人掌群鶏図》か)に次ぐ、№3ではないか。 雄鶏を濃い墨で、一気に描いている、水墨画の№1ではないか、と。 応挙の鯉は、左を意識していて、梅と合わせて、バランスが完璧。 日本美術の奥は深い、底が深い池を見たような気がする、まだ何が隠れているかわからない。

「ナンジャコリャ! 連発」という、この展覧会。 牧島如鳩(にょきょう1892~1975)の《魚籃観音像》。 小名浜の漁協に豊漁を祈って描いた絵。 イコンを描き、キリストと仏陀も同じ一つの「元愛」があるという考え。 笠木治郎吉(1862~1921)の《提灯屋の店先》《新聞配達人》。 横浜で外国人の土産物の水彩画を描く。 油彩のような力量のある作品を、気に入らないと描かない。 娘が1972年に、かさぎ画廊を開き、孫がインターネットで探して英米や国内から作品を集めた。 安藤緑山(りょくざん、1885~1959)の《胡瓜》超絶技巧の象牙彫刻作品。

ヘタ絵であるが、それゆえに美しい、愉快な絵。 《築島物語絵巻》(日本民藝館)胴から手の生えている人の形などはテキトウだが、馬だけはうまく描こうとして、蹄などがうまくいっている。 イノセントな、等身大の絵。 《かるかや》(サントリー美術館) 盃に花の散るのを見て、無常を感じ、身重の妻を残して出家した父を、子の石童丸が探す。 父は死んだと墓に案内する僧は、実は父の刈萱道心だった。 それを伝えに帰ると、母が亡くなっていた。 父と子は、同じ時に亡くなり、ともにあの世へ。 サントリー美術館の学芸員は、室町の中世絵巻は庶民が主人公のものが出てきて、登場人物の裾野が広がり、それを見る人の裾野が広がった、と。

長谷川巴龍の《洛中洛外図屏風》江戸時代(17世紀)。 史上一番下手な洛中洛外図。 二条城などは、がたがた。 署名に「法橋」とあるが、ギャグか。

山下裕二さんは、稚拙な美を求める文化は、日本には中世からあった。 ヨーロッパでは、税関吏だったアンリ・ルソー以来だ、と。

2016年『日曜美術館』「熱烈ダンギ! 若冲」2025/07/14 07:06

 9年前の2016年4月10日のNHK『日曜美術館』は、「熱烈ダンギ! 若冲」という番組があった。 録画してあったので、見る。 『日曜美術館』40周年の番組で、司会は俳優の井浦新と伊東敏恵アナ。 ちょうど伊藤若冲生誕300年、上野と京都で若冲展が開かれ、一大ブームが起きた年だ。 ゲストは、杏子(ロックシンガー)、辻惟雄(美術史家)、挟土秀平(左官職人)の三人。 辻惟雄(のぶお)さんは、従来、狩野派や土佐派など伝統的な画風から大きく外れたユニークな画家として忘れ去られていた一人の伊藤若冲を、1970年に『奇想の系譜』で再発見し、以来人気が出て、2000年に初めての展覧会「若冲」が京都国立博物館で開かれた。 『奇想の系譜』で、「新しい〝美〟を打ち出した時代の最先端を象徴するアヴァンギャルドな前衛画家」とされたのは、伊藤若冲のほか、曽我蕭白、岩佐又兵衛、狩野山雪、長沢芦雪、歌川国芳だった。

 番組は、伊藤若冲を、生命の姿を描いた、ユーモアのある水墨画、装飾の極み、とまとめて始まる。 《鳥獣花木図屏風》…1センチ四方のモザイク状のマス目86,000個、さらにそのマス目を九つに分割している。 ポリフォニー、リズム感は、現代に直結するようだ。 過剰に向かって、すっきりしている。(挟土さん)

 《動植綵絵》…140㎝×80㎝、30幅。 42歳から10年かけて描いている。 《釈迦三尊像》と合わせ、相国寺に寄進。 極彩色に輝く生命。 貝や昆虫まで描く。 慈しむ心、自然の持つ色の美しさ。 あらゆる手法で試みる。 魚、ルリハタの深い青には、プルシアン・ブルーを使う、ヨーロッパから輸入されたばかりの貴重な絵の具。 その内《牡丹小禽図》は、直径1ミリの牡丹の花粉まで描いている。 匂い立つほど、濃密な色。 《秋塘群雀図》、粟を描くのに、黄土色の点に穴を開けて、立体感を表現している。 《雪中錦鶏図》、緑青(高価)を何種も使っている。 靑と緑はなかなか手に入らず、挟土さんはキプロスで緑の土を掘ったという。

 若冲の執念について。 辻さんは、《南天雄鶏図》の赤と黒、南天の実には、シュールな気配さえある。 鶏冠(とさか)も細かい。 写生を超えた世界、シュール・リアル、幻想的。 天台宗の教え、「草木国土悉皆成仏」を表すようだ。 《動植綵絵》の入魂十年、なぜ描いたか、実情はわかっていない。 若冲は、中国の絵を千点、模写している。

若冲の自画像だと思う絵。 杏子さんは、《猛虎図》。 挟土さんは、《旭日鳳凰図》、靑と緑、全部つめこむ。 波の表現など、やれるだけやった感じ、《動植綵絵》の前だが、どこも細密で、ただただ、すごい、得意技が入っている。 やりすぎているベスト版。 辻さんは、《池辺群虫図》。 緑色、虫や蛙、生き物たちの楽園。 浮塵子(ウンカ)まで描く。 若冲には「独楽窠(どくらっか)」=巣穴という雅号もある。

《果蔬涅槃図》は、母の死をきっかけに描いたといわれる。 青物問屋というルーツを使う。 信仰心、家族像、最初に戻るやさしい感じがある。 可笑しみ、愛があり、全部を集めて、みんなが主役。 「ゆるい若冲」、描くことを楽しんでいる「優しい若冲」。 衒(てら)うところがない、奇抜だけれど、自然体で描く。

千年先に残せるような、人さまのための絵2025/07/13 07:13

 祇園会が終わった七月一日、若冲は一人で、煙管屋の木津屋から届いた文を懐に、八坂門前の一角にある寂れた道具屋、壺中屋へ行った。 木津屋の屏風絵がふた月前に壺中屋から納められたと知り、君圭の消息を尋ねに来たのだ。 若冲とさして年の違わぬ老婆が、「するとあんたが、伊藤若冲かいな」。 あの屏風を見て訪ねてくるとすれば、伊藤若冲よりほかおらぬ、と君圭が言っていたという。 「わしはお前の絵が嫌いじゃ。そやさかいあいつのところに行って、これまでどれほど拙(つたな)い絵を描いてきたか、じっくりその眼で確かめてきたらええ」 手許の抽斗から手さぐりで一枚の書き付けを取り出し、それをひらりとこちらに投げた。 「拙い絵と言われたが、意外か。腹が立ったか。そらそうじゃろう。おぬしがかれこれ数十年、京洛の者どもから稀代の画家よ、奇矯の画人よと褒めそやされてきたでなあ。そやけど世間はだませても、わしの眼は誤魔化せへんで、お前の絵はすべて、己のためだけのもの、そない独りよがりの絵なんぞ、わしは大嫌いじゃ」

 「おお、そうじゃ。絵というもんはすべからく人の世を写し、見る者の眼を楽しませるべきもの。けどお前の作は自分の胸の裡(うち)を吐露し、己が見たくないものから眼を背けるもんやろが」 「なあ、若冲よ。絵師とは、人の心の影子。そして絵はこの憂き世に暮らす者を励まし、生の喜びを謳うもの。いわば人の世を照らす日月(じつげつ)なんやで」 目の前の媼(おうな)は絵画に淫した若冲の心の弱さを見抜き、嘲(あざ)笑っているのだ。 「それに引き換え、ただただ自分の苦しみを、のべつまくなしに垂れ流しているお前の絵はなんじゃいな。四条の円山応挙は、絵は世間の者のためにあるとよう知っとった。ただ己を空っぽにして、人の眼を楽しませるためだけにその技を使うたさかい、あいつは京洛でああももてはやされたんじゃ」

 媼の悪口は、不思議と不快ではなかった。 絵に漂う哀しみ苦しみを読み取った上で「若冲」(「大いに充実しているものは、空っぽのようにみえる」)の号を授けた相国寺の大典の如く、世の中にはどうやらごくわずかながらも、己の絵の本質を看取する者がいるらしい。 目の前の媼がその一人であり、己と君圭の関係を知った上で自分たちの絵を腐すのが、何やら有難く思われた。 (わしは――わしらはまだ千年先に残せるような、人さまのための絵を、一つも描いてへんやないか)

 石峰寺に駆け戻るなり、若冲はお志乃に手伝わせ、ありとあらゆる反故紙を糊で貼り継ぎ、縦五尺、横一丈あまりの巨大な紙を二枚創り上げた。 部屋中に広げたそれに乗り板を渡すと、若冲は竹炭で紙を六扇に区切った。 まず右隻の中央右寄りに巨大な白象を、左隻に大きく羽を広げた鳳凰を素描する。 巨大な木を二隻の両端にそびえさせ、実をつけた葉叢を天に配した。 その構図は傍目には、君圭の鳥獣図屏風と映ったであろう。 だがあの屏風絵に描かれた鳥獣は、みな若冲がこれまでに描いた絵からの引き写し。 そんな過去の遺物だけで、この絵を仕上げてなるものか。

 若冲は、象の傍らに豪猪(ヤマアラシ)、綿羊、山童(オランウータン)、駱駝を、鳳凰の周りには、火喰鳥、高麗鶯、紅羅雲など珍妙な姿態の異国の鳥たちを描いた。 (これは浄土や。そう、わしは浄土を描くんや) 鳥も花もすべて生きることは美しく、同時に身震いを覚えるほど醜い。