嵩、暢に半年遅れて上京、暢の部屋に転がり込む2025/06/21 07:01

 上司にも同僚にも恵まれ、和気あいあいとした中で誌面を作る『月刊高知』での日々は楽しかった。 だが、仕事の面白さを感じるほどに、中断された夢がよみがえってくる。 嵩の中で、もういちど東京でデザインの仕事をしながら漫画家を目指したい気持がふくらんでいった。 大切な二十代の五年間を戦争で奪われてしまったのだ。 東京でやっていける実力があるのかわからず、生活をしていけるのかも不安だった。

 そんなとき、暢が上京すると言い出した。 以前からの知り合いが高知県選出の代議士になり、速記の技術を持つ暢が、東京で秘書をしてほしいと頼まれたという。 嵩が上京したいと思っていることを知っていた暢は、「先に行って待ってるわ」と言って、さっさと上京してしまった。

 暢に遅れること半年、嵩も上京の決意をする。 暢が待ってくれていることはもちろん、もうひとつ、気持に区切りをつけたのは、昭和21(1946)年12月21日午前4時に起きた南海大地震だった。 しばらく寝て、後免町から徒歩で新聞社に向った嵩が、ようやく社にたどりつくと嵩以外はみんな出社していて、すでに第一報が出ていた。 自分はジャーナリストに不適格であると悟ったのだ。

 昭和22(1947)年6月、嵩は上京、とりあえず東京田邊製薬時代の仲間が新橋で始めたデザイン会社を手伝う。 住まいは見つけることができず、暢が東急東横線の大倉山駅の近くで間借りしている部屋に、転がり込む。 暢の友人夫妻の家で、子供がふたりいた。 3歳の男の子と、生れたばかりの女の子である。 下の女の子は両親と一緒の部屋で、上の男の子は子供部屋で寝ていた。 暢は、この男の子と同じ部屋で暮らしていた。 男の子の世話をするかわりに下宿代は無料だった。 嵩の財産は、軍隊時代の飯盒ひとつ。 暢は、例の紺のジャンパーの着たきり雀で、嵩が持ってきた背広とコートを作りかえて着せると涙ぐんでよろこんだ。

 お金もなく、将来のこともわからず、夜は隣に三歳児の寝息を聞きながら眠るコブつきの同棲生活。 だが、ふたりでいるというそれだけで心は満たされた。 暢は言った。 「とても幸せよ。でも、いまがいちばん幸福だったらいやだなあ」 「もっと幸福になるさ」 嵩はそう答えた。

 この年、日本橋三越で、戦後第一回の日本広告展が開催された。 以下、三越の包装紙とショッピングバッグ<小人閑居日記 2025.6.10.>へ戻って、続く。

嵩が好きになった小松暢のこと2025/06/20 06:53

 『月刊高知』創刊号が発売になった7月末、編集部員みんなで東京へ取材旅行に行くことになった。 高知県出身の国会議員や作家へのインタビュー、東京の盛り場のルポなどが目的である。 外食には「外食券」が必要で、自分の食べる米は靴下に入れて持っていかなければならない時代だ。 嵩は、編集室で前の席に座る暢(のぶ)のことが気になっていたので、一緒に行動できるのもうれしかった。 紺色のスラックスにジャンパーの暢は、童顔でショートヘアということもあって、まるで少年のよう、横になって休むこともできない汽車旅だったが、好奇心に目を輝かせている。

 飯倉片町にあった高知新聞社の支局に宿泊、まず国会議事堂で高知県出身の林譲治内閣書記官長にインタビューした。 嵩の役目は、林の似顔絵をスケッチすることだった。 東京での取材もほぼ終わったので、闇市の屋台でおでんを食べた。 ところが翌日、暢をのぞく皆が腹痛と下痢、食中毒になった。 暢がなんともなかったのは大根ばかり食べていたからだった。 暢の看病で、最初に回復したのは嵩だった。 暢と嵩は荷物を整理し、高知に送るためリヤカーで駅まで運んだ。 途中、通り過ぎるトラックやすれちがう男たちが、冷やかしの声をあびせる。 嵩は、いやだね、とは言ったが、自分たちが恋人のように見えたのかと思うとうれしかった。

 高知に戻り、ふたりで取材に行った帰りの夜道で、ふとしたことから暢にキスをしてしまった。 すると、ひきよせた彼女のからだが急に重くなって、嵩の胸にたおれこんできた。 ふだんの気の強い暢とのギャップに、嵩は「なんてかわいいんだ」と、愛しさでいっぱいになった。 暢も嵩のことが好きだとわかり、ふたりは晴れて恋人同士になった。

 暢の父・池田鴻志(こうし)は、高知県安芸郡安芸町の生まれ、高知高等商業(現・高知市立高知商業高校)、関西法律学校(現・関西大学)を卒業して、大正5(1916)年、鈴木商店の系列の九州の炭鉱会社に入社、すぐに鈴木商店本体に引き抜かれ、大阪木材部に勤務した。 鈴木商店は、当時日本一といわれた総合商社で、大番頭の金子直吉は、高知県吾川郡名野川村(現・吾川郡仁淀川町)の出身で、高知高等商業の卒業生を積極的に採用していた。 暢は、父の大阪木材部時代に生まれ、兄と二人の妹がいた。 父は大正8(1919)年に釧路出張所の所長になるが、大正13(1924)年に亡くなった。 暢が6歳のときである。

 家族との縁の薄さは、父との死別だけではなかった。 暢には結婚歴があったが、その相手も若くして亡くなっている。 暢は大阪府立阿倍野高等女学校(現・府立阿倍野高校)を卒業し、しばらく東京で働いたあと、21歳のときに結婚した。 相手は6歳上で、高知県出身の小松總一郎、日本郵船に勤務していたが、一等機関士として海軍に召集され、終戦直後に病死した。 ひとり残された暢は、自活の道を求めて高知新聞社の記者募集に応募したのだった。

高知新聞社入社、雑誌『月刊高知』編集部で小松暢に会う2025/06/19 06:55

 戦争が終わってしばらくのあいだ、嵩の心はむなしさでいっぱいだった。 嵩の心を深く傷つけていたのは、信じてきた「正義」が突然ひっくり返ったことだった。 正義のためなら死んでもしかたがないと思っていた自分は、いったい何だったのだろう。 戦友や弟は、何のために死んだのだろう。 考え続けた嵩は、ひとつの考えにたどりついた。 それは「ある日を境に逆転してしまう正義は、本当の正義ではない」というものだった。

 もし、ひっくり返らない正義がこの世にあるとすれば、それは、おなかがすいている人に食べ物を分けることではないだろうか――嵩はそう思うようになった。 この思いは嵩の中で生き続け、長い年月をへて、誰もが知るヒーローを生むことになる。

 戦友に声をかけられ、進駐軍の廃品を回収する仕事を手伝った。 アメリカの雑誌は、上質な紙にカラーで印刷され、写真やイラストは鮮やかで、皮肉のきいた漫画も載っていた。 何でもいいから文化的な仕事をしたいと思うようになった嵩は、高知新聞社で記者を募集していたので、試験を受け、昭和21(1946)年6月に入社した。 配属されたのは社会部だったが、一か月で創刊する雑誌『月刊高知』の編集部に異動した。 編集長は高知新聞の編集局次長だった青山茂、編集部員は嵩より七か月早く入社した品原淳次郎と、二か月早く入社した小松暢(のぶ)だった。 小松暢は、大正7(1918)年生まれで嵩の一つ上だが、嵩は早生まれなので、学年は同じである。 高知新聞の戦後の女性記者第一号として4月に入社していた。 年齢よりずっと若く見え、色白で一見かよわそうだが、女学校時代は「韋駄天おのぶ」と異名をとった短距離ランナーで、高知でハチキンと呼ばれる元気いっぱいの明るい女性だった。

 取材や原稿依頼からレイアウト、校正、広告取りまで、このメンバーですべてやった。 目の回るような忙しさの中、昭和21(1946)年7月25日、『月刊高知』は創刊された。 新聞本体にはまだ文化記事が少なかった時代、ルポやインタビュー、座談会、小説、エッセイ、詩歌、漫画と、盛りだくさんの総合雑誌は画期的だった。 三千部で創刊した雑誌は、やがて一万二千部に達した。 部員全員が雑誌編集ははじめてで、試行錯誤をしながら型にはまらない新しい雑誌をめざして奮闘する日々。 嵩は、ふたたび青春がもどってきたような気がした。

嵩、敗戦の翌年1月に復員、弟の千尋海軍少尉は戦死2025/06/18 07:22

 敗戦後、嵩たちの部隊が帰国できたのは、年が明けてからだった。 昭和21(1946)年1月23日に上海港から復員船に乗り、1月25日に佐世保港に着いた。 嵩は自分の戦争体験について、80歳近くになるまで書いたり話したりすることがなかった。 アンパンマンのヒットによって取材を受けることが増え、戦争について質問されるようになった。 その頃には戦争体験者が減っていて、嵩は自分のような者にも戦争の理不尽さを語り残す役割があるかもしれないと思うようになったのだった。

 佐世保港の検疫所で、頭からDDTをかけられて全身真っ白になり、解散式があって、故郷までの切符を受け取って汽車に乗った。 途中、広島駅にさしかかったとき、街ごとなくなっていたのには、息をのんだ。 空襲で焼かれた街をいくつも見た嵩は、自分の故郷も焦土となっているのではないかと思った。 岡山県の宇野港から四国に渡り、汽車で後免駅に降り立ったとき、嵩は夢を見ているような気がした。 昔と同じ風景が目の前に広がっていたのだ。

 なつかしい家にたどりつき、木戸を開けると、伯母のキミが出てきた。 「お母さん、ただいま帰りました」と言うと、伯母は泣きくずれた。 お互いに連絡する方法がなく、伯母は嵩の生死がわからないまま、ずっと帰りを待っていたのだ。 嵩の手をとって、伯母は言った。 「ちいちゃんは……、死んだぞね」

 ちいちゃん・千尋は、昭和16(1941)年春、旧制高知高等学校を卒業して京都帝国大学法学部に進んだ。 当時の大学は三年制で、千尋の卒業は昭和19(1944)年3月のはずだった。 だが、修業年限が6か月短縮され、昭和18(1943)年9月に繰り上げ卒業となった。 徴兵されて陸軍に入るのでなく、千尋は海軍予備学生に志願した。 海軍予備学生は、飛行科と兵科に分かれていた。 千尋が採用されたのは兵科第三期で、第二期では五百名程度だったのが、三千五百名前後に大幅に定員が増えていた。 千尋は、大学の卒業式から一週間後の10月1日に横須賀第二海兵団に入団し、まずは海軍軍人としての基礎をたたき込まれた。 翌昭和19(1944)年2月、専門に分かれて教育を受ける術科学校に進む。 術科課程を終えて5月に少尉に任官したあと、駆逐艦・呉竹(くれたけ)の水測室に配属された。 水中音から敵の潜水艦の位置を探知する水測室は、船底に近い位置にあり、もし敵の水雷が命中すれば生き残る可能性はまずない。

 昭和19(1944)年12月30日、千尋を乗せた呉竹は、台湾とフィリピンのあいだにあるバシー海峡で、米潜水艦レザーバックの雷撃を受けて沈没した。

戦地、1000キロの行軍、マラリアと飢え2025/06/17 06:59

 昭和19(1944)年7月25日、いよいよ嵩たちの部隊は戦地の中国に向けて輸送船で門司港を出港する。 釜山をへて、8月7日に上海に着いた。 しばらく上海付近で警備などを行ったあと、台湾の対岸の福州(現在の福建省福州市)に上陸した。 すでに日本軍の主力部隊が、一週間ほどの戦闘で福州を占領しており、嵩たちの部隊は中心地を離れた農村地帯に何の抵抗もなく上陸し、米軍の上陸を食いとめる要塞を築き、大砲を据える役割だった。 敵がやってくる気配もなく、嵩はビラやポスターなどで、占領地の住民の敵対心をやわらげる宣撫班の仕事を手伝って、紙芝居をつくったりした。 (昨日の朝ドラ『あんぱん』、漢字を学んだ国、現地の人の前で、「宣撫班」などという腕章をしていたのだろうか?)

 嵩たちは福州で年を越したが、米軍はやってこないし、中国軍との戦闘もない。 昭和20(1945)年5月、日本軍は福建省の福州、厦門(アモイ)、浙江省の温州にいた部隊のすべてを上海に集め、そこで決戦にそなえることを決定した。 米軍は4月1日に沖縄本島に上陸していて、この先、台湾やその対岸に上陸することはないと判断したのだ。 嵩たちの部隊も、上海に移動することになり、大砲は船で海路を運び、人は陸路を行軍する。 一日40キロの道のりを重い装備を背負って歩いた。

 途中で何度か中国軍の襲撃があった。 そのたびに人が死に、まだ息のある者を置き去りにしながら、行軍は続いた。 1000キロにおよぶ苦しい行軍の途中で、嵩は何度か父のことを思った。 嵩が歩いた道は、父が30年前に上海の東亜同文書院の調査旅行で通ったルートと重なっていたのだ。 長い行軍を生き延びたあと、嵩は父が自分を守ってくれたのだと思った。

嵩たちの部隊が駐屯したのは、上海の近郊、江蘇省松江県(現在の上海市松江区)にある泗渓鎮(しけいちん)で、上海決戦の準備をすることになった。 着く早々、嵩にマラリアの症状が出たが、二週間ほどで起き上がることができた。 軍医は、軽症だといったが、行軍中なら死んでいた。 上海決戦はなかなか始まらず、いったん始まれば長期戦になる見込みというので、食糧をぎりぎりまで切りつめることになった。 ひもじさのあまり、嵩たちはそのへんに生えている草をゆでて食べ、最後は、上官が飲んだあとの茶がらも食べた。 空腹があまりにもつらく、腹にたまるものなら、もう何でもよかったのである。 食べるものがないと、からだがつらいだけではなく、心もみじめになる。 精神がけずられ、気力がなくなってしまうのだ。 飢えが人間の尊厳を奪うことを、嵩は心の底から実感した。