ゴッホの手紙<等々力短信 第1196号 2025(令和7).10.25.> ― 2025/10/25 07:05
そもそも「等々力短信」の前身「広尾短信」を始めたのは、福沢諭吉や夏目漱石の手紙の面白さを知って、電話で何事もすます世の中に、なんとか手紙の楽しさを復活させ、広められないかと、思ったからだった。 当時なぜ『ゴッホの手紙』という本があるのか、深く考えたことがなかった。 明治末期の雑誌『白樺』に児島喜久雄が連載し、大正に入って木村荘八が単行本を、1950(昭和25)年代に式場隆三郎や小林秀雄が出している。 7月27日の『日曜美術館』「星になった兄へ 家族がつないだゴッホの夢」で、ゴッホを有名にするについて、手紙と家族の役割が大きかったことを知った。
フィンセント・ファン・ゴッホは、1853年にオランダで牧師の父の長男として生まれた。 頑固で癇癪持ち、些細なことに激昂するところがあったが、16歳で伯父の画廊グーピル商会のハーグ支店に勤める。 弟のテオも、後に同商会のブリュッセル支店に勤め、二人は手紙のやりとりを始める。 ゴッホにとってテオは、唯一心の通う存在だった。 文通は当然絵画に及び、テオはマネの版画などをコレクションしていた。 ゴッホは、23歳で画廊を解雇され、聖職者を目指すが、教会に受け入れられず、父とも諍いを起こす。 兄の才能を信じるテオが、画家になるように勧め、援助する。 パリ支店にいたテオが送る版画の影響で、1885年初期の代表作《ジャガイモを食べる人々》が生まれる。 描いた作品を送ったので、その大部分はテオの手元に残った。 32歳でパリへ、2年間テオと同居、その間手紙はないが、テオの妹への手紙でゴッホの様子がわかる。 二人は議論を深め、印象派や浮世絵(500点を蒐集)にも触れ、ゴッホの絵は変化し、筆遣いと色彩に目覚める。 1888年、南仏アルルへ、その芸術は花開く。
テオはヨー・ボンゲルと結婚し、1890年に生まれた長男にフィンセントと名付け、ゴッホは祝いに《アーモンドの木の枝》を贈る。 だが、その2か月後、ゴッホは自死、半年後に20代のテオも病気で亡くなる。 ヨーは、1歳に満たぬ息子を抱え、生前はほとんど売れなかったゴッホの作品を受け継ぎ、オランダに帰って、下宿屋を開業する。
ハンス・ライテン著、川副智子訳『ヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲル 画家ゴッホを世界に広めた女性』(NHK出版)の作曲家・望月京(みさと)さんの朝日新聞書評を読む。 ヨーは内向的で自信のなかった読書好きの少女だったが、彼女にとって「この世で最も神聖なもの」だという画家の手紙の編纂を早くから計画し、英訳も自ら担当。 適切な協力者の人脈を築き、展覧会の開催、絵の貸し出しと売却、テオの生前の見解や手紙の内容から作品に名をつけ目録を作成、見事な宣伝や出版戦略、ゴッホ兄弟や息子への愛と、たゆまぬ努力で、義兄の作品を世界に広める偉業を成し遂げた。
小泉八雲、ラフカディオ・ハーンと、その妻節子 ― 2025/10/08 07:12
小泉八雲、ラフカディオ・ハーンの妻セツをモデルにした、朝ドラ『ばけばけ』が始まった。 ふじきみつ彦脚本、松野トキ(高石あかり、幼少期・福地美晴)、父司之介(岡部たかし)、母フミ(池脇千鶴)、祖父勘右衛門(小日向文世)、親友サワ(小山愛珠)、裕福な親類タエ(北川景子)、その夫・傳(堤真一)、そしてヘブン(トミー・バストウ)。
小泉八雲、ラフカディオ・ハーンと、その妻セツについては、以前いろいろ書いていた。 少し、振り返っておきたい。
「等々力短信」第159号 1979(昭和54).9.25.
小泉八雲が明治23年の日本の第一印象を記した「極東第一日」(『日本瞥見記』所収)にこんなくだりがある。 店先に並んだちょっとした細工物の一つーつに魅せられて買いたくなる。 あれこれ買う内に店全体を、店の主人まで含めて買いたくなる。 街並みを、木を、風景を、そして、日本全体の四千万の愛すべき人々も含めてほしくなる。
ミキモトでレイモンド・ブッシェル氏の根付のコレクションを見た。 一口に、ものすごいものだ。 「自分と顧客のみを満足させればよかった」職人の自由で創造的な発想、気の遠くなるような技術と根気。
根付の美を発見したのは明治以後日本を訪れた西洋人であった。 今日その名品の多くは諸外国にあって日本ではなかなか見られない。 日本人は根付について1781(天明元)年に最初の本を出したあと、二冊目の本を出すまで150年以上も間をあけた。 この冷淡と無関心の間に、根付はどんどん海外に流失していった。
「等々力短信」第207号 1981(昭和54).2.15.
モースが明治10年最初に出会って好きになった日本人達は、数年後の再来日の時には本当に消滅してしまっていたのだろうか。
明治24年の松江。 日本におしよせた近代化の大波からは、ちょっとかくれた入江であった。 貧窮した士族の娘で、23歳の小泉節子が中学の英語教師で、17歳年上のお雇い外国人の妻になった噂が広がったぐらいだった。
「ママさん、あなた女中ありません。その時の暇あなた本よむです。ただ本をよむ。話たくさん、私にして下され」。 夫人が家事をするとラフカディオ・ハーンは不機嫌になったという。 節子は日本の古い伝説や怪談の本をあさり読んでは、ハーンに物語った。
われわれが幸福にも心のふるさとともいうべき共有財産として、「耳無芳一の話」「食人鬼」「安芸之助の夢」「雪女」「力ばか」といった数々の物語を持っていられるのは、ハーンと、彼が松江で出会った日本人妻のおかげである。
『文武二道』の黄表紙、風刺が伝わらず過激に ― 2025/09/20 07:29
大河ドラマ『べらぼう』第35話「間違凧文武二道(まちがいだこぶんぶのふたみち)」。 朋誠堂喜三二作の黄表紙『文武二道万石通(まんごくとおし)』は、鎌倉に時代を取り、頼朝が畠山重忠に命じて、武士たちを「文に秀でた者」「武に秀でた者」と、何の役にも立たぬ「ぬらくら者」に分ける。 頼朝は将軍、畠山重忠は梅鉢の紋で松平定信を思わせ、「ぬらくら」は田沼派の武士たちを風刺する、仕掛けになっている。 だが定信は、自分の政治が認められていると勘違いする。 天明8(1788)年、阿波蜂須賀家儒者の柴野栗山(嶋田久作)が将軍家お抱えとなり、松平定信は「田沼病」を根本から正すために、学問、孔子の教えを広めよと命じる。 定信は、十五歳の将軍家斉の輔佐役に就任、その勢いは増すばかりだ。
蔦屋の黄表紙三冊は、すごい売れ行きで、蔦重は世の中の流れが変わる、と言う。 だが、「ふんどしのフンドシ担ぎ、幇間になり」「ふんどしのご政道を持ち上げつつ、皮肉る」「あべこべの世をとことん伝える」意図は、どうも理解されないようだ。 『悦贔屓蝦夷押領』だけが売れていない恋川春町(岡山天音)は、駿河小島藩の家臣・倉橋格だ。 小島松平家当主松平信義(林家正蔵)は、この本を褒めながら、どうも皮肉が伝わっていない、志は立派だが、しかと伝わるものでないと…、と指摘する。
剣術道場や論語の講義には、何十年もの修業が必要なのに、にわかづくりの新参者が押し掛ける。 やたらと、武家ぶる連中も増えた。 蔦重は、「とんちき」だ、馬の稽古をしたり、弱い者に威張る、と嘆く。 大田南畝が、「田沼意次様が亡くなった」と伝えに来た。 定信は、葬列に投石を許す、と。
「なかんずく、鸚鵡返しに…」と、一橋治済は、島津の殿様と能を舞っていて、定信が見ている。 将軍家斉と女中との間に子ができたのを、大奥が定信に隠していた。 一橋は、上様は子づくりに秀でている、後継ぎは上様にしか出来ぬ、島津の姫との稽古だろう、と。 定信は、豪華な能装束を見て、しめしがつきませぬ、と苦言。 島津が計らった装束、困ったのう。 一橋は、定信に能面を差し出し、「では、これで一つ良しなに。十万石をもらって返そう」と。
湯島聖堂で講義している柴野栗山の「心得」を出したらという助言で、定信は「老中心得」など各種心得、一般には「鸚鵡のことば」を出す。 人々はせっせと書き写す。 その中にあった言葉から、凧を揚げると、国が治まるという誤解が広まる。
秋、恋川春町が書いた新作『鸚鵡返文武二道』は、より風刺を効かせた痛快な内容。 醍醐天皇の御代、菅原道真の子菅秀才が大江匡房を呼び出し「九官鳥のことば」を出す。 凧を揚げると、国が治まるとあり、皆が凧を揚げると、鳶凧を仲間だと勘違いした鳳凰がやってきたので、天下泰平のめでたい世だと捕えて見世物にしたというもの。 ていは「これはからかいすぎでは」と心配する。 春町は、「からかいではなく、諫めのつもりだ」。 ていは「無礼、危ない」と。 そこへ次郎兵衛(中村蒼)が、定信が黄表紙好きで、春町贔屓、蔦重贔屓だという情報を伝える。
歌麿(染谷将太)が急な雨で家に帰ると、きよ(藤間爽子)という洗濯女が洗濯物を取り込んでいたので、手伝う。 きよは、耳が聞こえず、喋れない。 「一切二十四文」という紙を見せる、夜鷹もしているのだろう。 歌麿は、きよを描かせてもらう。
歌麿がきよを連れ、蔦重の店に来て、所帯を持つと挨拶する。 先月、鳥山石燕(片岡鶴太郎)先生が亡くなった、絵筆を握ったままの大往生、源内先生の起こす雷雨の中、妖(あやかし)を描きながら…。 歌麿は、きよを、ちゃんと幸せにしたいので、これを買い取ってもらいたいと、見事な「笑い絵」を差し出す。 「よく、描けたな」 「きよのおかげで、幸せってことがわかった」 蔦重は「おきよさん、ありがた山でござんす。歌を当代一に押し上げる。これは、こいつにしか描けない。一生そばに居てやって下さい」と。 歌麿に、百両渡す。 後で、ていは蔦重に、「心血が注がれた絵です」と言いつつ、「百両をちゃんと取り戻しましょう、私は蔦屋の女将でございますので」と言う。
定信の質素倹約に、蔦重「書をもって抗いたい」 ― 2025/09/19 07:06
大河ドラマ『べらぼう』第34話「ありがた山とかたじけ茄子(なすび)」。 天明6(1786)年11月、松平越中守定信(井上祐貴)は老中首座となる。 江戸では、まだ三十になったばかりのやり手、吉宗公の孫、吉宗公の生まれ変わりだという噂が広まる。 読売(瓦版)には、「奢侈に憧れ、おのれの欲を求める「田沼病」の世から、質素倹約の享保の世にならい、万民が働く真っ当な世になる」と書かせる。 蔦屋のおてい(橋本愛)は、真っ当な話だ、というが、蔦重は「定信は、田沼様の手柄を横取りして老中になったふんどし野郎だ」と言い放ち、反対に、いい紙や金銀を使った狂歌絵本をつくりたいと。
大田南畝が、罰せられるかもしれぬ、四方赤良の狂歌を止める、筆を折ると、言って来る。 上司に呼ばれ、「世の中に蚊ほどうるさきものは無しぶんぶといふて夜も寝られず」を、そなたの作ではないかと、詰問され、処遇は追って知らせる、と言われた。 「賄賂政治」といわれた田沼寄りの役人は、「みせしめ」のため、不正役人として、まとめて処分された。 土山宗次郎は逐電した。
類は、蔦重にも及ぶのか。 だが、蔦重は、「田沼様の世の風を守りたい」、「ありがた山の寒烏、かたじけ茄子」だ、平賀源内が言っていた「自らの思いをよしとして、わが心のままに生きる、もたざる者は…」というのはよかった、成り上がり者と正反対の世を目指すのは当り前だ、と考える。 店で家中の役目も、皆の入れ札でやろう。 入れ札を、国がやったら面白い、べらぼうでござろう、と。
蔦重は、狂歌師や戯作者、絵師たちを蔦屋に集め、「書をもって抗いたい」ので、皆様の力をお貸し下さい、と言う。 読売のネタ集めは、ふんどしがやらせている、「ふんどしのご政道を持ち上げつつ、皮肉る黄表紙を出そう」という提案に、「首が飛ぶぞ」という意見も出るが…。 「贅沢を禁止される今だからこそ、目玉が飛び出るほど贅を尽くした豪華な絵本を出すんだ」とも。 「天明の狂歌を守りたい」と言うと、南畝は心を動かされ「毛をふいて傷やもとめんさしつけて君があたりにはひかかりなば」を詠み、一同再び興奮し「屁、屁、へ、へ、へ、へ…」と踊り出す。
年が明けて天明8(1788)年。 黄表紙、朋誠堂喜三二作・喜多川行麿画『文武二道万石通』、山東京伝作・喜多川行麿画『時代世話二挺皷』、恋川春町作・北尾政美画『悦贔屓蝦夷押領』と、狂歌絵本、喜多川歌麿画・宿屋飯盛編・鳥山石燕序文『画本虫撰』が、華々しく出版される。
モネ、シニャック、クリムト、コラン、ゴッホの「ジャポニスム」 ― 2025/07/26 07:05
この万博には、清水卯三郎が檜造りの茶店を作り、柳橋の芸者を三人連れて行って芸や給仕をさせた展示が、大評判になった。 「フジヤマ、芸者」の起源といわれる。 着物や調度品など、エキゾチックな風俗、女性からの風俗が、興味を呼んだ。 風俗画家が、この芸者三人、内一人をヌードで描いている。 絵画の部門では、風俗画家たちが異国趣味の多くの絵を描くことから、まず出発した。
クロード・モネは、ジヴェルニーの食堂の壁に、浮世絵のコレクションを飾り、池には日本の睡蓮を取り寄せて、重層的に描いた。 馬渕明子さんは、クリムトは日本の金屏風や武具などの装飾性に注目した。 ちょうど、表現における革新を探していた時に出合って、コレクションした、と。 三浦篤さんが研究したラファエル・コラン(黒田清輝に西洋画を教えた)は、1千点の浮世絵をコレクションし、鈴木春信好きで、その作品でも、上品な若い中性的な男女を、淡い色調で描いている。
ポール・シニャックには、着物姿で、刀を振りかざしている、ご機嫌な写真がある。 孫娘(?)の研究家は、シニャックの浮世絵コレクションを保管し、シニャックが浮世絵から大きな影響を受けたことを指摘した。 色が明るく、透明で、水平線のうつろうところなど、平坦な絵でも色が振動していると、点描の新しい可能性を、そこに見出した、と。
ゴッホは、200点の浮世絵を持ち、構図、図柄、パターン、とくに配色に注目した。 和紙は、色を揺らめかせると、この色の理論家に、インスピレーションを与えた。 幅広い「ジャポニスム」の中で、究極はゴッホ。 《タンギー爺さん》や《花咲く梅の木》で、浮世絵の模写もしている。 日本に憧れ、35歳で浮世絵の色を求めて、アルルへ行った。 《ボンズの自画像》に見られるように、思想性、宗教性までの「ジャポニスム」。
画家たちは、日本の浮世絵の、「近接拡大と切断」、「非対称性の効果」(葛飾北斎の≪神奈川沖浪裏≫)に、大きな影響を受け、伝統的絵画からの自由と解放を得て、新しい芸術表現を生み出した。
なお、パリ万博と、その次のウィーン万博については、下記を書いていた。
「徳川慶喜、パリ万博大作戦~600万ドルを確保せよ」<小人閑居日記 2021.7.4.>
薩摩藩の妨害で600万ドル調達に失敗<小人閑居日記 2021.7.5.>
渋沢栄一、パリ万博へ<小人閑居日記 2021.7.9.>
1873(明治6)年、岩倉使節団とウィーン万博<小人閑居日記 2021.9.25.>
ウィーン万国博覧会の日本館、神社と日本庭園<小人閑居日記 2021.9.26.>
「ウィーン世紀末のジャポニスム」<小人閑居日記 2021.9.27.>
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