町からお上に前代未聞の案を献策2025/07/29 07:01

 『べらぼう』第27話「願わくば花の下にて春死なん」。 天明4年の春、不景気の波は出版業にも押し寄せ、蔦重が正月に出した狂歌集も売れ行きが振るわない。 幕府は、「米穀売買御勝手次第」の触れを出すが、米の値段は百文五合と高騰、流民がお救い小屋にあふれている。 花雲助(ハナノクモスケ)の狂名で、大文字屋の誰袖花魁(福原遥)のもとに通う田沼意知の話がどこから洩れるのか、「私腹を肥やし、女をあげている」と、田沼意次・意知の評判も落ちる。

 ていは、「このまま指をくわえて見ているのではなく、日本橋の皆で力を合わせて米価をさげる知恵を出し合いましょう」と言う。 背中を押された蔦重は、商人仲間に声をかけ、皆で知恵を出し、町からお上に献策しようと図る。 幕府が米を買い取り、そのままの価格で民に販売するという前代未聞の策が出た。 施し米ではなく、お上が米屋をやるのだ。

 蔦重は田沼家を訪れ、意知にこの案を伝えると、武士が商いまがいのことなどと、渋る。 蔦重は「これは商いではなく、政(まつりごと)です」と言い切る。 そして、誰袖花魁の身請け(落籍)も迫ると、それは土山宗次郎の名で身請けする手を打った、花の下で月見がしたい、と。

 大坂の悪徳米問屋を投獄し、召し上げた米が二十万石あった。 若年寄となった山城守田沼意知は、六万石を公儀で買い取り、市中にその値で売ることを、進めるのだが…。

『べらぼう』と令和の米騒動2025/07/28 07:16

第26話「三人の女」。 浅間山の噴火による天明の大飢饉で、江戸に米が無くなる。 百文六合、去年の倍の値段だ。 田沼意次(渡辺謙)は、今すぐ手を打てと、命ずる。 だが「田を沼に変へる手妻で六合の米を得させて消ゆる百文」という狂歌が流行る。 蔦重の母つま(高岡早紀)も下野(しもつけ)が不作で、髪結の仕事が上がったりで、蔦重の店に転がり込む。

 蔦重は、店の奉公人やタダで飯を食いに来る客の米が一俵しかないの仕入れに困る。 旧知の札差を招き、商談の席をつくり、大田南畝(桐谷健太)を同席させ、「搗(つ)く音に無限の米を降らせよやここに三俵かしこに五俵」「米、来い!米、来い!」と狂歌を詠ませて、なごやかな雰囲気をつくり、米を少しでも安くわけてもらえないかと、交渉する。

 南畝は、米の高騰は自然のせいばかりではない、売り惜しみをする連中が価格をつりあげているのではないか、という。 命令に従って正規の値段で売っている米屋は、ごくわずか。 庶民の暮らしは、ますます苦しくなっている。

 蔦重は、自分たちにできることはないかと、正月に向けて、おめでたい狂歌集をつくろうと、南畝に持ち掛ける。 「米一粒作れない俺たちでも、言葉なら投げかけられる。だからやるんです」 歌麿(染谷将太)の絵で、黄表紙が動き出す。

 紀州徳川家の治貞(高橋英樹)が江戸城に現れ、米騒動に対する幕府の対応を厳しく批判、お囲い米を出せと言い、田沼意次は、頭を下げるしかない。 その席にいた田沼意知(宮沢氷魚)は、蔦重を訪ね、どうすれば米価が落ち着くか、尋ねる。 蔦重は、狂歌集の草稿を見せ、これも策の一つと説明する。 さらに、本屋の世界で「仲間制度」があるために、本が自由に流通できなくて苦労した話をする。 田沼意知はヒントを得て、「恩に着るぞ、ありがた山だ」と。

 幕府は、大坂や京都、駿河などから江戸へ米を運ばせる段取りを整える。 もう一つ、田沼意知の提案で、米を扱う仲買や問屋の株仲間制度を一時的に廃止する。 米の流通を支配していた結束を解き、売り惜しみや価格の操作を防ぐ狙いだ。

大河ドラマ『べらぼう』浅間山の噴火2025/07/27 07:38

 大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の森下佳子脚本が、令和の米騒動をさっそく取り入れているのが、面白い。 まず、浅間山の噴火から。

 第25話「灰の雨降る日本橋」は浅間山の噴火、天明3(1783)年の4月8日に始まり、以後断続的な噴火をへて、7月6~8日の大爆発で火砕流と溶岩流が北麓の村々を埋め、吾妻(あがつま)川流域を襲い、死者2万人余という。 火山灰に加え、噴煙が日射量を減らし、天明の大飢饉が起こった。

 蔦谷重三郎(横浜流星)は、吉原者は家屋敷を市内に持てないということで日本橋進出を阻止されていたが、降った火山灰の片づけを、町内対抗の遊びに変えることで解決、ライバルの鶴屋喜右衛門(風間俊介)からも「江戸一のお祭り男よ」と暖簾を贈られて、天明3年秋には蔦屋耕書堂の日本橋通油町への進出を果たす。

 蔦重は、店舗を買った丸屋の女主てい(橋本愛)と祝言を挙げたが、商いの為の仮の夫婦だった。 教養のあるていは、蔦重にいろいろなことを教え、見やすい一覧表の出版目録「品の系図」を作ってくれた。 そして、江戸一の利け者の女房は私では務まりません、出家すると店を出る。 ていを蔦重は追いかけ、彼女が前に武将だがよい商人だったと教えた「陶朱公(范蠡(はんれい))の女房になりませんか」「おていさんは、俺が俺の為だけに目利きをした、俺のたった一人の女房でさ」と説得して、初夜を迎えることとなる。

 どちらも、「灰降って地固まる」。

新発見の若冲と応挙の合作屏風2025/07/15 07:09

13日のNHK『日曜美術館』は「ザクザク!日本美術 知られざる傑作を掘り起こす」、大阪中之島美術館の「日本美術の鉱脈 未来の国宝を探せ!」展を、この展覧会を監修した山下裕二さんの解説、ゲスト井浦新さんで取り上げた。

一番最後に見たのが、新発見の伊藤若冲と円山応挙の合作屏風。 若冲と応挙は、今まで交流した証はなかった。 当時の京都で第一位の画家といわれた応挙と、十七歳年上の若冲、その二人の合作屏風は、まさに夢の競演である。 金箔張りをバックに、墨で描かれている。 円山応挙は《梅鯉図屏風》天明7(1787)年。 伊藤若冲は《竹鶏図屏風》寛政2(1790)年以前。 応挙の鯉は、立体的に描かれている。 若冲のは、雄鶏を雄渾に大きく、雌鶏と雛を描き、若冲得意の虫食いのある竹の葉を配している。

この合作屏風を見た辻惟雄さんは、こんなのがあったんだ、保存もいい、驚いたと大喜びした。 そして若冲の代表作だ、《動植綵絵》、西福寺(《仙人掌群鶏図》か)に次ぐ、№3ではないか。 雄鶏を濃い墨で、一気に描いている、水墨画の№1ではないか、と。 応挙の鯉は、左を意識していて、梅と合わせて、バランスが完璧。 日本美術の奥は深い、底が深い池を見たような気がする、まだ何が隠れているかわからない。

「ナンジャコリャ! 連発」という、この展覧会。 牧島如鳩(にょきょう1892~1975)の《魚籃観音像》。 小名浜の漁協に豊漁を祈って描いた絵。 イコンを描き、キリストと仏陀も同じ一つの「元愛」があるという考え。 笠木治郎吉(1862~1921)の《提灯屋の店先》《新聞配達人》。 横浜で外国人の土産物の水彩画を描く。 油彩のような力量のある作品を、気に入らないと描かない。 娘が1972年に、かさぎ画廊を開き、孫がインターネットで探して英米や国内から作品を集めた。 安藤緑山(りょくざん、1885~1959)の《胡瓜》超絶技巧の象牙彫刻作品。

ヘタ絵であるが、それゆえに美しい、愉快な絵。 《築島物語絵巻》(日本民藝館)胴から手の生えている人の形などはテキトウだが、馬だけはうまく描こうとして、蹄などがうまくいっている。 イノセントな、等身大の絵。 《かるかや》(サントリー美術館) 盃に花の散るのを見て、無常を感じ、身重の妻を残して出家した父を、子の石童丸が探す。 父は死んだと墓に案内する僧は、実は父の刈萱道心だった。 それを伝えに帰ると、母が亡くなっていた。 父と子は、同じ時に亡くなり、ともにあの世へ。 サントリー美術館の学芸員は、室町の中世絵巻は庶民が主人公のものが出てきて、登場人物の裾野が広がり、それを見る人の裾野が広がった、と。

長谷川巴龍の《洛中洛外図屏風》江戸時代(17世紀)。 史上一番下手な洛中洛外図。 二条城などは、がたがた。 署名に「法橋」とあるが、ギャグか。

山下裕二さんは、稚拙な美を求める文化は、日本には中世からあった。 ヨーロッパでは、税関吏だったアンリ・ルソー以来だ、と。

2016年『日曜美術館』「熱烈ダンギ! 若冲」2025/07/14 07:06

 9年前の2016年4月10日のNHK『日曜美術館』は、「熱烈ダンギ! 若冲」という番組があった。 録画してあったので、見る。 『日曜美術館』40周年の番組で、司会は俳優の井浦新と伊東敏恵アナ。 ちょうど伊藤若冲生誕300年、上野と京都で若冲展が開かれ、一大ブームが起きた年だ。 ゲストは、杏子(ロックシンガー)、辻惟雄(美術史家)、挟土秀平(左官職人)の三人。 辻惟雄(のぶお)さんは、従来、狩野派や土佐派など伝統的な画風から大きく外れたユニークな画家として忘れ去られていた一人の伊藤若冲を、1970年に『奇想の系譜』で再発見し、以来人気が出て、2000年に初めての展覧会「若冲」が京都国立博物館で開かれた。 『奇想の系譜』で、「新しい〝美〟を打ち出した時代の最先端を象徴するアヴァンギャルドな前衛画家」とされたのは、伊藤若冲のほか、曽我蕭白、岩佐又兵衛、狩野山雪、長沢芦雪、歌川国芳だった。

 番組は、伊藤若冲を、生命の姿を描いた、ユーモアのある水墨画、装飾の極み、とまとめて始まる。 《鳥獣花木図屏風》…1センチ四方のモザイク状のマス目86,000個、さらにそのマス目を九つに分割している。 ポリフォニー、リズム感は、現代に直結するようだ。 過剰に向かって、すっきりしている。(挟土さん)

 《動植綵絵》…140㎝×80㎝、30幅。 42歳から10年かけて描いている。 《釈迦三尊像》と合わせ、相国寺に寄進。 極彩色に輝く生命。 貝や昆虫まで描く。 慈しむ心、自然の持つ色の美しさ。 あらゆる手法で試みる。 魚、ルリハタの深い青には、プルシアン・ブルーを使う、ヨーロッパから輸入されたばかりの貴重な絵の具。 その内《牡丹小禽図》は、直径1ミリの牡丹の花粉まで描いている。 匂い立つほど、濃密な色。 《秋塘群雀図》、粟を描くのに、黄土色の点に穴を開けて、立体感を表現している。 《雪中錦鶏図》、緑青(高価)を何種も使っている。 靑と緑はなかなか手に入らず、挟土さんはキプロスで緑の土を掘ったという。

 若冲の執念について。 辻さんは、《南天雄鶏図》の赤と黒、南天の実には、シュールな気配さえある。 鶏冠(とさか)も細かい。 写生を超えた世界、シュール・リアル、幻想的。 天台宗の教え、「草木国土悉皆成仏」を表すようだ。 《動植綵絵》の入魂十年、なぜ描いたか、実情はわかっていない。 若冲は、中国の絵を千点、模写している。

若冲の自画像だと思う絵。 杏子さんは、《猛虎図》。 挟土さんは、《旭日鳳凰図》、靑と緑、全部つめこむ。 波の表現など、やれるだけやった感じ、《動植綵絵》の前だが、どこも細密で、ただただ、すごい、得意技が入っている。 やりすぎているベスト版。 辻さんは、《池辺群虫図》。 緑色、虫や蛙、生き物たちの楽園。 浮塵子(ウンカ)まで描く。 若冲には「独楽窠(どくらっか)」=巣穴という雅号もある。

《果蔬涅槃図》は、母の死をきっかけに描いたといわれる。 青物問屋というルーツを使う。 信仰心、家族像、最初に戻るやさしい感じがある。 可笑しみ、愛があり、全部を集めて、みんなが主役。 「ゆるい若冲」、描くことを楽しんでいる「優しい若冲」。 衒(てら)うところがない、奇抜だけれど、自然体で描く。