福沢、きん夫人の連句に付句2007/03/21 07:18

 14日の「福沢に俳句や短歌はあるか」をお読みいただいた松崎欣一先生から、 メールを頂戴した。 『福澤諭吉全集』第二十巻の「歌句」収録のほかにも、福沢が きん(錦)夫人の連句に付句をしたものがあることを教えてくださった。 『福 澤諭吉書簡集』第八巻149頁の書簡番号2017、明治29年1月29日の飯田三 治宛の手紙に、それはある。

 『書簡集』第四巻〈ひと〉によれば、飯田三治は、中津の福沢の遠縁にあた る飯田家に生れ、笹部平四郎の養子となったので、明治4年12月入塾の時の 『入社帳』では「笹部三治」だが、のちに飯田姓に復した。 福沢邸の書生と して働き、三田演説館建設の際には「普請奉行の下廻り」を務めた。 一時期、 中津市学校で教え、その後中津で法律研究所を設立したが、国会開設請願運動 を機に上京したといわれ、明治15年からは再び福沢邸に寄宿、16年に朝鮮か ら留学生が来た時には、その世話掛を務めた。 19年から24年までは時事新 報社で庶務的な仕事を担当、その後、静岡と東京の米穀取引所理事、また歌舞 伎座株式会社の取締役や、目黒競馬会社の常務取締も務めた。 連歌を好み、 迂也や傘二と号し、俳句をたしなんだ福沢夫人きん(錦)の先生でもあった、 という。

 石河幹明著『福澤諭吉伝』第四巻411ページには、きん(錦)夫人は俳句を 初め飯田三治に習ったあと、蝸堂という俳人に学んだとある。 そこに福沢が 最初の大患から回復した時、夫人が詠んだ句がある。

  大灘を越えて嬉しき後の月

 そこで、飯田三治宛の手紙に戻ると、飯田の句

  梅ありてこそ鶯もしたわ(は)るれ(←「慕ふ」だから『諭吉伝』の「は」 の方がよさそうだ)

 に、きん夫人が

  梅もよし牡丹も見たし道成寺

 と付けたのに、福沢が

  誰が聞分けん鐘とつゝみと

 と付けたという手紙にあるものを含め、「別紙」の連句について飯田の批評を 乞うものだった。 残念ながら、「別紙」は残っていないという。 福沢は「発 句の韻字も平仄も知らず」(連句の規則を知らないけれど)、「こんなことで間ニ 合ふものなれバ、随分容易ニ出来可申(もうすべく)」と、言っている。

 晩年の福澤夫妻の、ある日の様子が伝わる手紙である。