桃介、結核療養中の株の儲けで木曽川電源開発2011/06/07 05:38

ここから、ちょっと、『福澤諭吉事典』を離れる。 名古屋までの新幹線で読 もうと持って行ったのが、小島直記著『桃介・独立のすすめ』(新評社・1972 年)で「福沢諭吉直伝サラリーマン立身術」という副題のある小説だ。 桃介よ りも七つ下の弟分、慶應義塾では福沢諭吉の散歩党の一人で、学生時代から株 をやっていたという松永安左衛(エ)門との、生涯の盟友関係も描いている。 挿 絵は、私の好きな風間完だ。

 明治22(1889)年に北海道炭礦鉄道会社に入社、エリート・サラリーマン の道を歩み始めた福沢桃介だったが、27歳の明治27(1894)年肺結核に罹り、 会社を辞めて療養生活に入る。 療養の間、株式投資を始め、生来の相場師と しての勘と、徹底的な研究による科学的投資に、折から日清戦争の最中、日本 の勝利による株価高騰もあって、当時の金額で10万円(現在の20億円前後)巨 額の利益を上げたという。 療養により病状は好転し、株で得た金を元手に実 業界に進出する。

 明治39(1906)年、療養後再就職していた北海道炭礦鉄道を退職、瀬戸鉱山を 設立して社長に就任。 翌年、日清紡績を設立、相場から離れる。 桃介にと って幸運なことに、その後、相場は暗転する。 木曽川の水利権を獲得し、明 治44(1911)年、岐阜県加茂郡に八百津発電所を築いた。 同年、日本瓦斯会社 を設立。 これらを始めとして、大正13(1924)年には恵那郡に日本初の本格的 ダム式発電所である大井発電所を、昭和元(1926)年には中津川市に落合発電所 などを建築し、また矢作火力(現・東亜合成)、大阪送電などの設立を、つぎつ ぎに行う。 大正9(1920)年には、大阪送電を改組する形で、五大電力資本の 一角たる大同電力(戦時統合で関西配電。現・関西電力)と東邦電力(現・中部電 力)を設立、ほかにも愛知電気鉄道(後に名岐鉄道と合併。現・名古屋鉄道)の経 営に携わったほか、大同特殊鋼などの一流企業をつぎつぎに設立し、「日本の電力王」「名古屋発 展の父」と呼ばれる。 その業績の割に、有名でなく、評判がよろしくないの には、ある事情がある。