富田正文先生の『信州福沢考』 ― 2011/06/28 06:41
宮川幸雄さんは、ご自身が前号148号の『福澤手帖』の「信州の福澤諭吉」 に書かれたように、本籍地が長野県上田市で、麻布善福寺の「福澤氏記念之碑」 にある「福澤氏の先祖は信州福澤の人なり」に、ずっと興味を持ってきた。 そ の話を聞いて、私は富田正文先生が昭和61(1986)年の米寿に配られた豆本風の 小冊子『信州福沢考(講演筆記)』のコピーを差し上げたことがあった。 これ は富田先生が松中深志三田会(信州の松本中学とその後身の深志高校の卒業生 で組織)でなさった講演の速記を、同会の幹事が印刷配布したものが元で、米 寿を機会に少し補修なさったものである(昭和61年6月16日刊行、発行者富 田正文)。 富田先生の「信州福沢」の推定候補地11か所の内に、「諏訪郡豊平 村福澤、現在の茅野市豊平」は、確かにある。
茅野市は、のちに諏訪市と合併したから、藤森教授の「長野県諏訪市福澤山 一帯」は、ここのことである。 この地には善徳屋敷という屋敷跡があり、こ の屋敷の主、福澤善徳が福澤家の先祖ではないか、というのが藤森先生の推論 である。 武田勝頼は木曽義昌を討とうとして、甲斐の兵と諏訪頼豊の兵を派 遣した。 このとき福澤善徳は諏訪氏の陣にあったが、合戦のあと帰陣も戦死 の報もなく、善徳屋敷の名前だけが残ったという。 この木曽鳥居峠の合戦に 敗れて、福澤善徳は峠の下の松本平に敗走、そこを領していた小笠原氏に仕え たと考えれば、福澤氏と小笠原家の結びつけられるというのが、藤森先生の力 説するところらしい。
そもそも富田正文先生が『信州福沢考』の調査を始められたきっかけは、茅 野の開業医がこの茅野福沢村の善徳屋敷の地に「福沢氏祖先発祥の地」の記念 碑を建てたいので、慶應義塾の中の意見をまとめてくれという話を持ち込んで きたことにあった。 後年、富田先生がその地へ行くと、その時は善徳屋敷跡 の樹木も何もなくなって、見渡す限り団地造成の整地が行われて、跡形もわか らなくなっていた、(括弧して小さな字で)「その後同地の有志者が福沢家発祥 の地の記念碑を建てたという」と、かなり冷たく書いている。 福沢の自らを 偶像化しない、「福澤氏の先祖は必ず寒族の一小民なる可し」(福澤氏記念之碑) のカラッとした精神を、受け継いでいるのであろう。 「信州福沢」がどこか、 確定できるほどの資料はないようだ。
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