フェルメールの「牛乳を注ぐ女」2012/07/17 02:34

 小池昌代さんの「45文字」の緒方は、「お尻を、あたためているのね」と、 まるい声で女に言われたところで目が覚めた。 二十年前、中学時代に一度だ け陸上競技会の補欠になって、一日中ござの上に座っていたら、長距離の選手 のサクラダが声をかけてくれた。 夢で聞いたのは、その言葉だった。 緒方 は、いま、時を経て、かすかな温かみを、尻でなく心臓の辺りに感じていた。

 それから一週間ほどたって、仕事をやめてぶらぶらしている緒方は、ハロー ワークの帰り道で、横山に会う。 横山もサクラダも、中学で同じクラスだっ た。 本好きで、学校の読書感想文コンクールでいつも表彰されていた横山は、 編集の会社をつくり、とても忙しいという。 てつだってくれないか、と言わ れ承諾した緒方を、そこに寝泊まりして仕事をするという自分の家に連れて行 った。 食料を買って、高級マンションへ行くと、サクラダがいた。 横山と サクラダは、結婚していた。 三人の、合宿のような仕事漬けの生活が始まる。

 仕事は、美術全集の編集、コンパクトな四六判サイズのビジュアル本、全部 で三十巻ぐらいになるという。 その絵の下に、「45文字」のキャプション、 短い説明文をつける役目だった。 横山は、緒方が作文が得意で、いきいきし たユーモアのある文章を書いていたのを憶えていた。

 という訳で、緒方が最初に取りかかったのが「フェルメール」の「牛乳を注 ぐ女」、英語で「ミルクメイド」だった。 「ミルク壺からこぼれる、細い牛乳 の筋」で十七字、消して直して「静かにミルクを傾ける女。絵のなかで、こぼ れ落ちるミルクだけが永遠に生々しい。」これで三十八文字、あと七文字分だ。  悩んでいると、「夕食できたわ、ごはんにしない?」と、サクラダの声。 サク ラダのつくる飯はうまい。 サクラダが三つの湯飲み茶碗に茶を注ぎ分ける。  茶を注いでいる彼女の肢体に、あの絵の女が、自然、重なる。 サクラダも、 絵の女も、そこに自分の心があるというように、目をふせ、液体をそそぎ入れ ていた。 急須の口からこぼれていくものは、ミルクほどには繊細ではなかっ たが、サクラダは似ていた。 あの絵の女に。 額が広く少し出ているところ。  たくましい身体つきなのに、どこか、すこしだけ、自分のなかに、自分を引い ているようなところ。

 風呂から出たあと、完成したキャプションは「注意深く牛乳を傾ける女。す べてが静止している清潔な室内で、落下する牛乳の筋だけが動いている。」

 私は、江國滋さんが『名画とあそぶ法』(朝日新聞社)に、このフェルメール の「牛乳を注ぐ女」に恋をしたと書いていたのを思い出した。(1993(平成5) 年3月15日「等々力短信」第630号)