荷風、「良家の長男」に抵抗 ― 2013/01/13 07:20
年譜(野口冨士男『わが荷風』岩波現代文庫)によれば、荷風数え19歳の 明治30(1897)年は、こういう年だった。 2月吉原に遊ぶ。 3月中学卒業。 7月第一高等学校受験に失敗。 9月父母二弟とともに(父が日本郵船の支店 長になった)上海へ渡航。 11月帰京、高等商業学校附属外国語学校清語科入 学。
以後、20歳で作品を携えて広津柳浪を訪問、門に入る。 21歳、落語家・ 朝寝坊むらくの門人となり、三遊亭夢之助の名で市内各区の寄席に出ていた。 秋、九段下の富士本亭に出演しているのを自家に出入りの車夫の妻に見つかり、 その通報で禁足を命じられた。 22歳、懸賞小説の当選作などが、『新小説』 や『文芸倶楽部』『活文壇』などの雑誌に掲載される。 福地桜痴門下となり、 作者見習として歌舞伎座に入った。 23歳、福地桜痴が『日出国(やまと)新 聞』主筆に迎えられたのに従って入社するが、内紛のため5か月で解雇される。
佐藤春夫は、こう言う。 「外国語学校に籍を置いたのは家庭との妥協であ り、遊芸人や芝居者を志したのはみな家の躾と良風美俗とに対する具体的な反 抗である。やがて当年として最も良家の疎んじた新聞記者となり、「新梅暦」な どという人情本の試作に手を染めたのも、みな必ずしもそれらの職業そのもの を愛したのではなく、進んで世外人(アウトロウ)となって良家の一員の資格 を自ら抹殺して社会的虚飾を脱した自由放奔な生涯をはじめたかったからに違 いない。」(64頁)
こうした荷風の生活ぶりをみた「家庭では荷風を国外に追放してアメリカで 実業を見習わせるつもりであった。」 日本郵船に入って、実業界でも重い地位 を占めていた父久一郎は、荷風が一通りの実業の経歴を持ちさえすれば、しか るべき地位に就けることもできると考えたからだろう。 しかし、「荷風として は専ら家郷の束縛を脱し、異郷の放浪児として紅毛碧眼の女児と戯れたり、文 学の修業を心ゆくまでして、あわよくば労働によって(稼いだ資金で)、あこが れの芸術国フランスへの渡航をも夢みて流謫(るたく…罪によって遠方に流さ れること)のアメリカも荷風にとっては一つの自由郷また文学に雄飛のための 足場のつもりであった。」(69頁)と、佐藤春夫は書いている。
私は先日坂上弘さんの講演で聴いた、三田の教え子、水上瀧太郎との共通点 と相違点を、考えたのであった。
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