小満んの「つるつる」後半2013/02/01 06:32

 柳橋の料亭。 はい、竹の間ですね、下へご挨拶して来ます。 先ほどは電 話で失礼、大将は競馬ですか、お尻から一等賞、ゴルフ、麻雀、鉄砲、釣りと お忙しい。 お嬢ちゃん、白い粉叩いてもらって、お綺麗ですよ。 坊ちゃん、 ピストルですか、手を上げろ、一八改めアパッチ、情けないね、ご祝儀出ない んだ。 お福さん、布団の綿の入れ替えですか、貯蓄がかさんできたという噂 ですよ、通帳は七、〇、〇、〇、〇となっているとか。 みんな可愛い猫です ね、こんちはーーー。

 ほどなく繰り込んできますよ、いつもの連中。 今、何時? ヒーさん、先 夜はどーも、ヒーさん、先夜はどーも。 一八、今夜は働くな、客にしてやる から、えばって殿様気分で。 何かして遊びてえ、俺がこれを出そうじゃない か、財布だ、頭を半分刈って二十円。 ハンガリーか何か、言おうてんですか、 今夜はいけない。 下って十両、目の中に指を入れる。 生爪はがして五両。  一両で、ボカッと殴る。 算盤でボカボカ、パチパチ。 ぶち所は? 目と鼻 の間。 五十銭で肩。 かかとは二十五銭。

 コップ一杯一円はどうだ、息をつかずにグッグッグッと。 いい飲みっぷり だ。 一両やるぞ。 照ちゃん、照奴さん、ご愛嬌たっぷり、笑窪が可愛い、 アイコンタクト、七、八分目にして。 また一杯についじゃった。 大将、頂 きました。 酌人代えて、ふーちゃん、明治座の踊りのおさらい、なぎなたが 七三で決まったよ、おっ母さんが涙だった、一杯にしちゃったよ、頼んでるの に。(と、だいぶ酔って来る) 大将、頂きました。 いいのか、無理すんな。  こんなに、なみなみと…、いいお兄イさんだ、いい商売だ。 帰りに大きなが ま口かなんか、拾いそうだ。 そう、帰れば小梅ちゃんが待ってる。 足掛け 十三年のご贔屓、帰って帝釈様に拝むんだよ、あなたのことを芸者衆が褒めて いる、浴衣にニッカボッカが、よく似合うと。 半分頂いたのに、一杯になっ ちゃった。 誰がついだのか、手手見せろ。 ふーちゃん、まさか貴女だと思 わなかった。 大珍談、鳴尾の競馬、有馬温泉に行く旦那の見送りで東京駅へ 行って、丸の内の洋食、精養軒でビーフストロガノフなんぞ食べていると、か のふーちゃんのそばに、乙な感じの…、くすぐっちゃ困る、また一杯になっち ゃった。(もう、グテングテン) 軽く歌って、♪女房でも切れる……口約束で はなおのこと、チャカラカチャン、チャカラカチャン…。 ようやく逃げ出し た。 チャンチャチャ、チャンチャン。

 開けて下さい、お清さん。 ベロベロね。 お土産(みや)は、紐ばかり、 ポストの所に玉子焼と海老の鬼殻焼が…。 師匠、お帰りになってる。 これ でチン、チーンと来たら、師匠の枕元を通らないと、小梅の所へ行けない。 茶 の間の明り取りから下へ行こう、帯を解いて、梁に結び、素っ裸、目が回るか ら手拭で目隠しをして、釣瓶の要領で降りようと考えている内に、グーーッと 寝込んでしまった。 はたと気づいて、つるつると下に降りると、茶の間では みんなで朝飯の最中。 どうしたんだ、寝ぼけたのか、フンドシ一本で。 え っへっへ、ターザンの夢を見ました。

ルオーの「ピエロ」2013/02/02 06:31

 かなり旧聞に属するが、昨年10月から12月にかけてパナソニック汐留ミュ ージアムで開かれた「ジョルジュ・ルオー I LOVE(ハートマーク) CIRCUS」展を見た。 ルオーが好きなことは何度も書いているが、その大本 がブリヂストン美術館にある「ピエロ」(1925年)で、つまりサーカスの道化 師なのだから、この展覧会は見逃せなかった。 そして「シルク・ド・ソレイ ユ」の「シルク」が、=サーカスだということを知った。 50年前の第二外国 語は、フランス語だったのに…。 サーカスのテーマは、ルオーの全絵画作品 の三分の一、700点余を占めるのだそうだ。 約30年前の「等々力短信」に、 ルオーの「ピエロ」について、こんなことを書いていた(『五の日の手紙』150 頁)ので、それを初めに引く。

   等々力短信 第335号 昭和59(1984)年10月5日

             ルオーのピエロ

 白金の東京都庭園美術館で、ルオー展を見た。 ここは以前、迎賓館といっ ていたところで、ごく身近な者が結婚式をしたことがある。 その時の花嫁は なぜか、あれからずっとわが家にいる。 その後、西武のホテル建設計画に、 隣の自然教育園への影響を心配する反対があって、長くごたごたしていた。 ど ういう経緯があったのか、いつの間にか、東京都の美術館と迎賓館になったの である。

 ルオーの「ピエロ」に、ひさしぶりに会った。 好きな絵を一枚あげろとい われれば、私は文句なくブリヂストン美術館にある、この絵を選ぶ。 深い悲 しみを秘めながら、静かで、温かく、おだやかな、「ピエロ」を見ていると、こ ちらの心まで落ち着いてくる。 三好達治の「冬の日」という詩の世界だ。 あ あ智慧は かかる静かな冬の日に/それはふと思ひがけない時に来る/人影の 絶えた境に/山林に/たとへばかかる精舎の庭に/前触れもなくそれが汝の前 に来て/かかる時 ささやく言葉に信をおけ/「静かな眼 平和な心 その外 に何の宝が世にあらう」。 十代の頃に、この絵に出会い、この絵の前に立つだ けのために、その後、何度かブリヂストン美術館に足を運んだ。

 デパートで開かれる展覧会は、人の頭を見に行ったというようなことが多く、 それを考えただけで、行きたくなくなる。 ルオー展は、まだ庭園美術館があ まり知られていないためか、ゆったりと見ることができた。 今回の展覧には、 ブリヂストン美術館の他に、清春白樺美術館、出光美術館、群馬、埼玉、富山 の各県立美術館が、所蔵のルオー作品を出陳している。 私は日ごろ、最近の 地方美術館のブームに疑問を持っていた。 お金があるからといって、(実は、 国としては財政危機で、借金のツケを、将来の人に押しつけているのだが)、そ れぞれの県や市や区までが立派な美術館を建て、一点豪華主義で高価な絵を買 ったりしていいのだろうか。 きちんとした学芸員がいて、絵の適切な維持管 理や研究が、なされているのだろうか。

 しかし、大好きなルオーの展覧会を見ていて、いちがいに地方美術館を攻撃 できない気分になってきた。 地方の町の少年が、十代の私のようにルオーに 出会うこともあるだろう。 それはツケを負担するだけの価値があることかも しれないのだ。

ルオーとサーカス、そして道化師2013/02/03 07:39

 パナソニック汐留ミュージアムの「ジョルジュ・ルオー I LOVE CIRCUS」 展は、三幕に分かれていた。

 第一幕は「悲哀―旅回りのサーカス」1902~1910年代。 ルオーは1871年 にパリの場末の労働者街、ベルヴィル地区の貧しい家具職人の家に生れ、少年 時代にステンドグラス職人に奉公していたという。 その頃夢中で見た旅サー カスを思い出しながら、画家で師匠だったギュスターヴ・モローの美術館の初 代館長をしていた32歳頃になって、道化師を描き始めたのだそうだ。 水彩 に油彩を重ねるなど、複数の素材や技法を用いた「複合技法」を積極的に使っ ている。 ルオーは「道化師は私なのだ。私たち誰もが金ぴか衣裳をつけた道 化師なのだ」という言葉を残しているそうだが、その描く道化師やレスラーや シャユ踊り(フレンチ・カンカン)の踊り子の表情は、暗く、孤独で、哀しい。  ここには1920年代に描かれた「自画像コーナー」があり、道化師に扮したも のもある。 解説に、それには「内面の葛藤が見られます。道化師はルオーに とって自分自身であるとともに「人間」の象徴そのものでした。他人から理解 されず、自由で無欲で、勇敢で常に満たされぬ思いを抱いている「人間」、決し て希望を失わず、希望することによって人生と運命とを支配する「人間」の象 徴なのです」と、あった。

 第二幕は「喝采・舞台をひと巡り」1920~30年代。 見世物小屋の呼び込 み、大太鼓を叩く道化師、女曲馬師、バレリーナ、曲芸師、調教師、ライオン などが描かれている。 この展覧会の看板とでも言うべきか、ルオーが生涯に 描いた最大級の油彩画3点が揃っているのが、目を惹く。 タピストリーの原 画として原寸大に描いたのだそうだ。 「傷ついた道化師」152×105cm、「小 さな家族」(出光美術館蔵)212.3×119.5cm、「踊り子」216×116.5cm。  「サーカス資料コーナー」には、ルオーが実際に見ていたサーカスのパンフ レットやポスターがあった。 シルク・フェルナンド、シルク・メドラノなど。  サーカスの舞台となる円形のアリーナが、馬をぐるぐると走らせるのにちょう どよい大きさ(直径?12、3メートル)になっているというのが、面白かった。  後のことだが、ルオーの絵を一手に扱うようになった画商のヴォラールが、シ ルク・ディベールに席を持っていて、ルオーはそこでサーカスを見たようだ。  それが第三幕の「記憶―光の道化師」1940~1950年代に結びつく。

暖かい色、優しい顔の道化師へ2013/02/04 06:32

 第三幕の「記憶―光の道化師」1940~1950年代。 ルオーの晩年、彼が描 く道化師は、愛と犠牲を体現するキリスト的な人物像と一体化していく。 明 るい空色が印象的な1941-42年の「貴族的なピエロ」(アサヒビール株式会社 蔵)、1956年の額の形まで塗り込んだ女道化師「マドレーヌ」(パナソニック汐 留ミュージアム蔵)など、優しい表情と暖かい色彩が見られる。 「マドレー ヌ」は、キリスト伝のマリアを彷彿とさせるといわれる。 それはブリヂスト ン美術館にある「郊外のキリスト」などの、先のある道や水平線にマッチ棒の ような塔の見える平和な風景画に共通するもので、救いを求めて生きる人間へ の、温かい愛を感じさせる。

 後年になるにつれ、色彩は鮮やかさを増し、ステンドグラスのように光り輝 く。 よくそれを、ルオーの黒く骨太に描かれた輪郭線とともに、14歳の時に ステンドグラス職人イルシュに弟子入りしたことの影響だと言う。

 ルオーのサーカスの道化師を扱った10月28日放送の「日曜美術館」、ゲス トは作家の鹿島田真希さんだった。 芥川賞受賞作『冥途めぐり』のモチーフ になった夫の病気のことを語った。 聖職者になる勉強中に、頭の病気になり、 今は家にいる。 ルオーのピエロの顔は、キリストの聖顔に重なり、不幸の先 にあるものを、そこに見ることが出来るというのだった。

 この展覧会、パリのサーカスの資料とともに、同時代20世紀初頭のモンマ ルトル風俗を象徴する「バル・タバラン」の資料が展示され、1939年のものだ が「バル・タバランのショー」の映像を見ることができた。 バルはつまりバ ーなのだろうが、タバラン座、キャバレーといってもよく、フレンチ・カンカ ンのショーがあった。

 先日、佐藤春夫の『小説永井荷風伝』で読んだ永井荷風がパリに行ったのは 30歳、1908(明治41)年のことで、ほぼ同時代、「バル・タバランのショー」 は見たであろうか。 翌年博文館から出版され、すぐに発禁になった『ふらん す物語』は未読だが、ちょっと覗いて見たくなった。

『福翁自伝』とアメリカびいき2013/02/05 06:38

 岩波書店の『図書』2月号で、平川祐(示右)弘さんの「『福翁自伝』とオラ ンダの反応(上)」を読んだ。 1934(昭和9)年に清岡暎一訳の『福翁自伝』 “The Autobiography of Fukuzawa Yukichi”が、東京の北星堂とロンドンの W.G.Allen書店から出版された際、翌年の3月24日日曜、オランダ、アムス テルダムの『デ・テレグラーフ』(De Telegraaf)という新聞に長文の書評が載 った。 オランダ語で書かれたためか、今まで紹介されたことのなかったのを、 平川さんが取り上げたのだ。 英国ではその年の1月に、『タイムス文芸付録』 と『マンチェスター・ガーディアン』に書評が出て、その二つは同年4月号の 『三田評論』に日本語訳が掲載されているそうだ。

 『デ・テレグラーフ』の書評の見出しは「一日本人闘士の生涯/福澤諭吉は いかにして彼の祖国に貢献したか/オランダ文化との最初の接触/福澤、新生 日本を語る」となっているそうだが、その記事に触れる前に、『福翁自伝』にい ちはやく注目し紹介した有力外国人として、平川さんが挙げたバジル・ホール・ チェンバレンから始めたい。 チェンバレンといっても、ミュンヘン会談での 譲歩など対独宥和政策を採ったが、後にドイツに宣戦したイギリスの首相アー サー・ネビル・チェンバレンではない。 バジル・ホール・チェンバレン(1850 ~1935)は、イギリスの言語学者、日本学者、みずからはチャンブレンと書き、 王堂と号す、1873(明治6)年来日、86~90(明治19~23)年東大で博言学 (言語学)を講じ、近代国語学の樹立に貢献、また東洋比較言語学を開拓した。  著書に『アイノ研究より見たる日本の言語神話及地名』『日本国語提要』『琉球 語文典及び字彙』『日本口語文典』や『古事記』の英訳などがある。

 平川さんは、そのバジル・ホール・チェンバレンが1905(明治38)年に出 た “Things Japanese”『日本事物誌』の第五版に「福澤は自国民を開化する ことを己れの使命とした。それは彼らを東洋主義(オリエンタリズム)から脱 却せしめ欧化すること、というか、より正確には、アメリカ化することであっ た」と述べて『福翁自伝』を明治の日本語作品の最高傑作と呼んでいる、と紹 介している。

 この「アメリカ化」で私は、1月22日に亡くなった服部禮(ネ豊)次郎さん が、『福澤諭吉と門下生たち』(慶應義塾大学出版会)の講演「福澤先生を偲ぶ」 で、こう語っていたのを思い出した。 「先生は二度もアメリカへ行き、そし てアメリカのことはよく知っており、またアメリカびいきでありました。子ど もさんを留学させるときにヨーロッパでなくアメリカへ留学させている。慶應 義塾が大学部を創って、いわゆるお雇い外国人を外国から招くというときも、 アメリカのハーバードから先生を呼んでいる。そのようにアメリカびいきであ りますが、先生は言論のなかではアメリカはいい国だということを非常に慎重 に避けておられます。」 アメリカびいきということになると、共和制がいい、 大統領制がいいのだと、勘ぐられるのを避けて非常に遠回しに遠回しにアメリ カを評価している、「後半生の大活躍の時代においても、一面において大胆奔放 のように見えますけれども、一面において用心深いところもあった人であるの かなと思うのであります。」