「憲法」について2013/02/22 06:46

 石原慎太郎議員の「憲法」に関する持論には、私は違和感を感じた。  先日、山口正介さんの『江分利満家の崩壊』(新潮社)で読んだのだが、正介 さんの母、山口瞳夫人の治子さんは、いつも日本共産党に投票していたという。  それは戦争は二度と嫌だから、憲法第九条を死守することが大切と考えていた ためだ。 3月10日の東京大空襲の時に、隅田川沿いの自宅から、すぐ上の姉 さんと二人、雨と降る焼夷弾の下を、炎を避けるためにドテラを羽織って駆け 出し、火のついたドテラを脱ぎ捨て、コンクリートのビルに逃げ込んで、よう やく命を拾った体験があった。 その体験は、9・11の第一報をテレビで見て、 咄嗟に「ざまあみろ! 思い知ったか!」と快哉を叫んで、正介さんを驚かせ たほどの、深い傷を心に残していたのだという。 昭和2(1927)年のお生れ だから、17,8歳だった。

 同じように空襲から逃げた体験があっても、4歳だった私は、ずっと能天気 だった。 戦後教育六三制の二年目に小学校に入り、新聞やラジオで「民主主 義」「戦争放棄の平和憲法」「基本的人権」「言論の自由」「男女同権」「文化国家 建設」のシャワーを浴び、小さい時からアメリカ映画をたくさん観て育った。  その空気の中で、日本国憲法の精神は、当り前のものとして身についたのであ った。 ちょっと銀行勤めはしたが、長く下町の零細工場を生業として暮して きた。 共産党までは行かないけれど、どちらかといえばリベラルで、社会民 主主義的な福祉国家を理想としてきた。 近年、大企業で高度成長の日本経済 を支えて来た同級生のかなりが、保守的で、自民党支持、かなり右翼的な考え を持っており、朝日新聞は偏向しているからと読まないことを知った。 現実 の世界を見て来た企業戦士たちと、子供のまま老人になったような私の「書生 論」との違いかもしれない。 「戦争放棄の平和憲法」を世界に広めて、核と 軍備を廃絶し、戦争のない世界をつくることはできないだろうか。

 福沢諭吉についての耳学問を続けてきて、福沢の思い描いていた近代化構想 のいくつかが、6,70年遅れて、日本国憲法に書かれていることを知った。 福 沢はイギリスモデルの議院内閣制(二大政党による政権交代制)を構想したが、 岩倉使節団の木戸孝允らは、ドイツ憲法を模範にする天皇主権の帝国憲法によ る明治国家をつくった。 福沢の『帝室論』は、ほとんど象徴天皇制を先取り していた。 福沢の女性論・家族論は、明治初期によくここまで考えたものだ と驚くほど、斬新なものだった。 明治14(1881)年の政変以後、福沢の近 代化構想が敗北していったことが、その後の第二次世界大戦の敗戦に至る日本 の針路を決めることになる。 日本国憲法で、福沢構想のいくつかは復活した 形になった。 そのためか、私が子供の頃、NHKしかなかったラジオから「天 は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」で始まる番組が流れて いた。 「人権の時間」だったか、「○○労働基準監督署は…」と、労働三法の 普及を図る番組だったように思う。 しかし現在でも、日本国憲法という枠組 が出来たのに、福沢が説いた自らの判断に従って行動する自立した国民が実現したかは疑問で、結果として未だに民主主義が形骸化したままだという意見もある。 私も、そんな気がしてしかたがない。