山口瞳さんの生活と意見2013/02/25 06:36

 『江分利満家の崩壊』の中に、正助さんの聞いた、山口瞳さんの言葉・意見・ 主張がいくつか出て来た。

 ○普通に日常生活をおくること、社会生活をつつがなく過ごすことこそ大事 業である、というのが、山口瞳さんの終生変わらなかった主張だった。

 ○葬式に行って、香典謝絶とか献花のみとか音楽葬、無宗教であったりする と、困ると、言っていた。 普通がいいんだよ、普通が、というのが、山口瞳 さんのポリシーだった。

 ○秘密の暴露のない私小説は駄目だ、と言っていた。

 ○物の書き方を諭した一つ。 鎌倉アカデミア時代に教えを受け、親炙して いた吉野秀雄先生の子息・吉野壮児さんが、先生の死後、父親への反発を描い た『歌びとの家』を発表した。 「(俺にもしものことがあっても)こういうも のを書くなよ」と、言った。

 ○「常套句は使うな」という父の教えに逆らうことになるが、母逝去の第一 報は、父方の親族には、その日の内に、文字通り“地球の裏側”(父の妹サカバ ーはロス在住)にまで届いた。 正介さんが「サカバー」と呼んでいた叔母伊 藤栄さんは、「世界的に有名な伝説的舞踏家の伊藤道郎の次男で、俳優兼ジャズ シンガーであったジェリー伊藤の未亡人」と、他の所にある。

 ○山口家には芸事が全てというような家風があり、何事も芸能界の習慣にた とえるようなところがあった。 「役者は親の死に目にあえないものだ」とい うものを家訓だと、正介さんは曲解していたという。

 ○贔屓の店に、次のような名があった。 銀座の江戸料理「はち巻岡田」… アンコウ鍋を宅配してもらう、三田の和菓子店「大坂家」…お年賀に使ってい た、べつに栗御飯を宅配ともある(私も三田へ行くと、寄る)、「フジヤマツム ラ」…愛用のシルクデニムの上下(死に装束にした)を買った(私は銀行の銀 座支店勤務の頃、集金に行っていた)。 神田明神下ふぐ料理の「左々舎」、天 橋立の「文殊荘」、金沢のバー「倫敦屋酒場」と懐石料理「つる幸」、京都の和 菓子の老舗「麩嘉」。

服部「ネ豊」次郎さん<等々力短信 第1044号 2013.2.25.>2013/02/25 06:38

 服部禮次郎さんが、1月22日に92歳で亡くなられた。 お名前の「禮」の 字は、ワープロでは出て来ないが、正しくはネ偏の「ネ豊」である。 新聞は 「礼」としていた。 「等々力短信」を読んで頂いていたので、その日知らず に、宛名の「示」を「ネ」に直して前号をお送りしたのが、最後になった。 以 前、團伊玖磨さんは「団」で来る手紙は読まない、と聞いていたからである。 

1996(平成8)年5月に、佐藤朔さんの後を受けて福澤諭吉協会の理事長に なられた。 以来、土曜セミナーや総会で、博覧強記の見事なスピーチや総会 議長の司会ぶりを、つぶさに拝聴することになった。

 協会の旅行でご一緒するようになって、直接お話を伺い、いろいろと教えて 頂く機会もできた。 毎回、企画の段階から周到に計画を練られ、きちんと下 見をなさって、解説の冊子まで準備されていた。 ご著書『福澤諭吉と門下生 たち』(慶應義塾大学出版会)の、「福澤諭吉ゆかりの史蹟めぐり」の章を読む と、中津、大阪、横浜、久里浜・浦賀、名塩・有馬・三田(さんだ)・京都、浜 松・鳥羽・近江、上州・信州、長岡・小千谷・柏崎、長沼・佐倉など、ご一緒 した旅行でのあれこれが思い出される。 連合三田会会長の威力は圧倒的で、 各地の三田会の方々は、われわれ福澤協会一行を暖かく迎えて下さり、とても いい思いをさせて頂くことが出来たのだった。

 雲の上のような方だったのに、私のような者でも、対等に扱って下さった。  お会いすれば、短信のお礼を言われた。 2003(平成15)年10月に『福澤諭 吉かるた』を出された時には、交詢社での福澤協会の会合で「このかるたの元 祖は、馬場さん」と、言って下さった。 その年の2月、私が「福沢諭吉いろ はがるた」を試作していたからである。 服部版は「い 一月十日は生誕記念 日」「ろ ロンドン・パリーをつぶさに視察」「は 母・兄一人・姉三人」と、 福沢の一生を扱ったもので、私のは「は 馬鹿不平多し(全集20-472)」「つ つ まらぬは、大人の人見知り(百話98)」「ね 鼠を捕らんとすれば、猫より進む べし(百話56)」と、福沢の言葉でつくったものだった。

 一番の思い出は、わが生涯の最良の日となった2009(平成21)年7月4日、 友人たちが青山ダイヤモンドホールで開いてくれた「『等々力短信』1,000号を 祝う会」でのことである。 服部さんは祝いの言葉を述べるに当って、わざわ ざ馬場夫婦を壇上に上げ、とくに家内の「等々力短信」千号への貢献に言及し て下さったのだった。

 慶應義塾にとっても、福沢研究においても、大きな貢献をされた大切な方で あった。 まことに残念というほかなく、謹んでご冥福をお祈りする。