B・H・チェンバレンの福澤諭吉略伝(上)2013/02/06 06:37

 平川祐(示右)弘さんは、バジル・ホール・チェンバレンの福澤諭吉につい ての見事な長文の紹介を、ご著書『進歩がまだ希望であった頃―フランクリン と福澤諭吉』(新潮社・1984年)に全文訳出した、と書いておられる。 幸い その本は私の書棚にあったので、さっそく読み直すと、簡潔にとてもよく福沢 の生涯をまとめている。 福沢の死後4年、1905(明治38)年刊の“Things Japanese”『日本事物誌』第五版「哲学」の項である。 長くなるが、デジタ ル・テキストにしておくのも何かの役に立つかと思い、引用させて頂く。 た またま、これを打っていたのは、福沢の命日2月3日だった。

 「この傑出した人物が及ぼした影響は、非常に広範囲に亙っているので、日 本を説明するにあたっては、いかに簡略なものであろうとも、彼の生涯と思想 に多少言及しなくては完全なものとはならないだろう。

 福沢は1835年(天保5年)に生れ、1901年(明治34年)に死去した。彼 の青年時代は、外国人との最初の接触によって始った日本の動乱時代と重なり、 彼の壮年時代は、近代日本を形成するに至るあらゆる制度の確立期に当ってい た。彼は九州出身の侍で、貧しく、幼少の時に父親を失った。彼はまず大阪に 出て、医学研究を口実に半ば公然と教えられていたオランダ語を習った。それ から1858年(安政5年)に江戸へ出た。彼の驚嘆すべき『福翁自伝』の中で もっとも驚嘆すべき一節は、当時まだ開けたばかりの横浜の居留地を訪れたと き、そこで西洋商人たちが使っている言葉はオランダ語でなく英語であるとい うことを発見して落胆してしまった、と語っている箇所である。だが福沢は少 しも怯まず新に志を発して英学に取組んだ。当時はまだ攘夷思想が激しく、異 国の事物にすこしでも心を傾けた者は、その事によってすでに暗殺の危険に身 をさらされた。それにもかかわらず、外国の種々の書物や文献を翻訳すること が、徐々に時代の要求となってきた。福沢はその翻訳の仕事に取組み、たいへ ん有用な人物となったので、1860年(万延元年)最初の遣外使節の一員に加え られた。しかし帰国してからは官につくことを一切辞退し、自国民を開化する ことを己れの使命としてその務めにふたたび打込み、終生止めなかった。彼の 務めは日本国民を東洋主義から脱却せしめ欧化すること、というか、より正確 にはアメリカ化することであった。なぜならば西洋諸国の中で福沢がもっとも 注目したのはアメリカであったからである。彼がアメリカで見いだしたものは 民主政治であり、簡素な家庭生活であり、常識的経験主義であり、「フランクリ ン主義」とでも名付けるべきものであったが、それらが福沢の強靭で、実際的 ではあるが、多少詩趣には欠ける知性にぴったり適していたのである。アング ロサクソン系は敬神の傾向が強いが、しかしそれは福沢の心に共感を呼び起さ なかった。福沢は宗教は無知無学の人の杖としかみなさなかったからである。 スペンサーの不可知論的哲学は、その否定的側面において、彼の心をひきつけ た。しかし福沢の活動のほとんどすべては功利的方面に発揮された。――彼は 電池の製作法や大砲の鋳造法、地理学や初等物理学のような実際的な学問の学 び方、外国の諸制度に関する知識の中ですぐ金儲けの役に立つような知識の習 い方などを日本人に教えた。また旧来の陋習を棄てて、恥しくない自尊自敬の 生活を送る仕方も教えた。彼は身分制を平準化することによって国中に福祉を ひろめることを教え、自分から率先して武士の特権を捨て、一介の平民となっ た。そしてすでに触れたように、一切の官職と給与とを辞退した。」(つづく)