『福澤諭吉事典』の「脱亜論」2013/09/18 06:34

 14日、福澤諭吉協会の土曜セミナーで、宮地正人東大名誉教授の「福澤の脱 亜論をどう考えるか」を聴いた。 とても、刺激的で、勉強になった。 講演 の話に入る前に、まず予習として『福澤諭吉事典』の「脱亜論」(都倉武之福澤 研究センター准教授)を読んでおこう。

 「脱亜論」は、『時事新報』の明治18(1885)年3月18日付社説。 全文 はおよそ3,000字。 朝鮮で発生した甲申事変後、いまだ政情が不安定で講和 談判も未決着の時期に、古いアジア的な政教風俗に恋々として国際情勢に危機 感を持たない朝鮮および清国に対する、日本の決別を主張している。

 その骨子は、次のとおりである。 東洋に押し寄せる西洋文明は努めて受容 すべきである。 開国以来の日本では、独立に対する危機感が高まる中で「古 風老大の政府」よりも「国」を重視した志士たちによって明治維新が起こされ、 旧套を脱し西洋文明を取り入れて、アジアに新機軸を打ち立てた。 このこと により、地理的にアジアに位置しつつも、日本国民は西洋文明を重きとする精 神に転じた。 ところが日本の隣の清国と朝鮮の二国は、西洋文明受容の心を 生ぜず、古風旧慣に恋々としている。 日本の維新のごとき激変が訪れない限 り、二国が古来のアジア流の政教風俗を打ち破って独立を維持する道につくこ とは不可能であり、遠からず西洋諸国の分割に帰してしまうことは目に見えて いる。 いまの日本にとっては、西洋諸国から近隣の二国と同一視され、古風 恋々たるアジアの一国と軽視されては独立を危うくする外交上の不利益をこう むるばかりである。 そうであれば、日本は二国の近代化を待って共に歩む方 針をやめ、西洋文明国と進退を共にし、同様に処するしかない、として次のよ うに結ぶ。  「悪友を親しむ者は共に悪名を免かるべからず、我は心において亜細亜東方 の悪友を謝絶するものなり」。

 そう内容をまとめたあと、この社説が、戦前の福沢研究論文や伝記などにい っさい登場しなかったのに、戦後、福沢諭吉のアジア論を否定的に再評価する 流れの中で、端的な表題であることもあいまってにわかに脚光を浴び、広く知 られるようになったことを述べる。 すなわち、この社説が日本のアジア侵略 の理論的裏づけになった、という見解が強く主張され続けている。 一方、『時 事新報』への掲載は甲申事変から三か月後で、福沢が支援していた金玉均ら朝 鮮開化派が亡命、あるいは殺害・処刑によって一掃されて、朝鮮政府を守旧派 が独占し、西洋文明への拒絶が明瞭になった時期である。 このことから、福 沢が一貫して支援してきた朝鮮の文明化に対する「敗北宣言」である、との見 解が学界で有力である。 また、日清間で事変の談判が開始される直前であっ たこと、英露の争いが巨文島事件に発展する直前であることから、国際情勢へ の福沢の強い危機感をふまえて執筆意図を解釈することの重要性も指摘されて いる。 そのほか、暗に日本の教育界における儒教主義偏重への批判を込めて いるとの指摘もある。

 以上、『福澤諭吉事典』の「脱亜論」の大半を引用することになった。

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