宮地正人教授の「福澤の脱亜論」(1)教科書・通史 ― 2013/09/19 06:40
そこで、宮地正人東大名誉教授の「福澤の脱亜論をどう考えるか」である。 まず宮地さんは自身の「脱亜論」問題の所在として、高校の歴史教科書に、い つ「脱亜論」が登場したか、を検討する。 それは1970年代後半からであり、 わずかに二つの教科書だけが触れただけだった。 それが1983年から84年に、 ガラッと様子が変わる。 各社の教科書に、急速に取り上げられるようになり、 ほとんどの教科書が言及するようになった。 朴正熙(パク・チョンヒ)大統 領の暗殺(1979年)や、高校歴史教科書で「侵略」を「進出」に記述是正した のと、関係があった。
(1982(昭和57)年6月、報道各社が翌年から使用される高校の歴史教科 書の検定作業で、文部省が「侵略」を「進出」に書き改めさせたと一斉に報じ、 その夏、中国と韓国による教科書検定批判の嵐が吹き荒れた。 私は9月25 日「等々力短信」第264号で、その発端となった報道が誤報だったということ を書いていた。)
教科書会社の意見が強い、教科書の作り方で、他の社の教科書に載っている のに、なぜウチのには載っていないのかという話になる、試験に出たらどうす るのか、と。
教科書で「脱亜論」は、近代の日本がアジアに対して遠慮会釈のない過酷な 侵略政策を推進したことの理論的裏づけになったとして、その流れの中で取り 上げられる。(馬場註…例えば「「脱亜論」の主張は、欧米列強の陣営に日本も 加わって、アジアの分割におくれをとるなということであった。」鹿野政直『福 沢諭吉』(清水書院)という見方と同じ。)
宮地さんは、自らのいわゆる「クソ実証主義」、事実だけを語って、論理が通 らないものは「通史」には書けない、という立場である。(著書に『通史の方法』 名著刊行会・2010年がある。) 福沢については、幕末から維新期の福沢の役 割、自由思想との整合を特筆し、福沢を抜いて日本近代の「通史」は書けない とするが、「脱亜論」には言及しない。 明治14年の政変は、福沢に強烈な衝 撃を与えた。 以後の主張は、思想的転換ではない。 慶應義塾とその関係者 を守るためのものだ。 「思うこと言うべからざるなり」、搦め手から言うこと を言う、苦労して言い回している、学生を送り出す教育者だから。 偉い人だ、 ザラにいない。
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