三年が経った、昭和23(1948)年2015/12/19 06:26

 『母と暮せば』、母の伸子は浩二を探し歩くが、あの一瞬に消えていて、遺品 の一つも見つからない。 三年が経った。 原爆の日、動員されていた工場を 腹痛で休んで助かった、浩二の恋人(婚約者? 親戚? 伸子が「町子」と呼び 捨てにするのが気になる、と家内も言う。)で小学校の先生になっている町子(黒 木華)は、たびたび伸子を訪ねて慰め、手伝ってくれている。 その日8月9 日は卵を持って来てくれて、二人で墓参りに行くが、伸子は町子に「もう、浩 二のことはあきらめよう」と宣言する。 伸子はその夜、卵焼きをつくり、今 日で陰膳をやめよう、と独り言を言っていると、後ろに気配がする。 階段に、 学生服の浩二が座って、笑いかけていたのだ。 「あんた、浩ちゃん?」 「母 さんは、いつまでもぼくのことをあきらめんから出て来られんかったとさ」  『父と暮せば』は原爆で死んだ父の亡霊が娘を励まし、『母と暮せば』は息子の 亡霊が母に、ちゃんと血圧の薬は飲んでいるか、と尋ねる。 「あんたは元気?」  「元気なわけなかやろう。ぼくは死んでいるんだよ。母さん、相変わらずおと ぼけやね」

 浩二は、おしゃべりで、よく笑う、ユーモラスで人懐こい性格、映画や音楽 を愛し、指揮者や小説家、映画監督になりたいという青年だ。 文科に進みた かったが、召集された柔道二段の兄に、母を守るため理科へ行けと言われて、 召集猶予のある医科大学に進んだ。 金を出してくれた伯父に、将来ノーベル 賞を取るような学者になれと言われて反発、離島で貧しい患者のために働きた いと言って、大喧嘩になり、伸子がひたすら頭を下げて謝ることになる。

 浩二は、メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲ホ短調が大好きで、ベルリン・ フィルハーモニーのレコードを聴き、「メニューインのヴァイオリンはいいな あ」と言い、指揮者の真似をする。 町子のウェデングドレス姿を想像して、 メンデルスゾーンの「夏の夜の夢」の中の「結婚行進曲」を口ずさむ。 脱線 するが、「メニューイン」、私の子供の頃は「メニューヒン」と言っていたよう な気がする、Menuhinと綴るからか。 同様に、「ディートリヒ」を「デート リッヒ」、「ハーシー」Hersheyのチョコレートを「ハーシェー」と言っていた ように思う。

 「ハーシー」で思い出したが、闇屋で伸子に密かに、途中から明らかに、好 意を寄せ、奮闘努力の甲斐がなかった、“上海のおじさん”(加藤健一)がいい。  彼が持って来る闇の品物に、「進駐軍」のLUXの石鹸、ピーナツ・バター (SKIPPY?)など、見覚えのあるものがあった。 また、脱線。 わが家に も、“上海の伯母さん”“シャンおばさん”がいた。 父の姉で、戦後上海から 引き揚げて来て、父が目黒の工場の一角に建てた家に住んでいた。 子供の頃、 兄と私は泊まりに行って、上海に行く前に嫁入り先で覚えた上方の押鮨をご馳 走になったり、トランプの一人占いをするのを見、いっしょにダウトや神経衰 弱やポーカーで遊んだりした。 昭和23(1948)年は、わが家に弟が生まれ、 私が小学校に上がった年だ。

 『母と暮せば』で、吉永小百合は終始、きちんとした着物姿だ。 息子の名 は浩二。 私の名は紘二、字は八紘一宇の紘だが…。 吉永小百合が、「こうち ゃん」「こうじ」と呼びかけるたびに、母に呼ばれているような気がした。 と 書いて、亡き母へ捧げる。