小泉信三さんの幅広い趣味2015/12/16 06:27

 小泉信三さんは、謹厳なばかりでなく、幅広い趣味をお持ちだった。 スポ ーツや文学はもちろん、歌舞伎や邦楽、そして落語まで。 毎年志ん生を座敷 に呼ばれたそうだが、料亭や花柳界との縁もあった。

 『小泉先生追悼録』古賀繁太郎さんの「秘蔵の話」に、こんな逸話がある。  何十年前か忘れたが、新橋で会があり、少しおくれて出ると、もう席が相当み だれていて、芸者が七八人で言い争っていた。 新橋へくるお客のうちで誰が 一番好きかと聞かれて、結局、近衛(文麿)さんと、小泉さんに煎じつまった あげく、近衛党と小泉党とで、鎬(しのぎ)を削っているところだった。 古 賀さんが、小泉さんはヒゲがなくってもあの立派さじゃないか、というと、小 泉党の芸者たちが「そうよ小泉さんの勝ちよ」と大騒ぎになった。 これを、 二十何年前、大阪で慶應庭球部の会のときに、小泉さんに話したところ、「そう いう話は、女房のいるときにやってくれよ」と、言われたという。

 『小泉先生追悼録』には、新橋 染福「小泉先生の思い出」、下田実花「先生 の覚えていた句」という追悼文がある。 染福さんは、先生が亡くなる一週間 前にお元気な御顔を拝見したばかりなのに、「ニュースを聞いて、頭から水をか けられた様な気がしたのと同時に、いつも先生をとりかこんで慕っていらした 皆さまの御嘆きがまざまざと目の先に浮びました」と始める。 一生の念願と して六十一歳の時「娘道成寺」を踊りたいと考えていたのを、昨年六月鯉風会 で実現した。 それを先生と奥様がご覧になり、ある人に感想の手紙を寄せら れた、それを拝見して感激、ぜひそれを記念に頂戴したいと、その方を通じて 先生にお願いしたのを、お聞き届け下さった上、一筆書いて下さった。 手紙 は、「染福の道成寺は立派だった。僕には専門的の事は云へないが、幾つかの動 き幾つかのきまりにいいなと思ふものがあつた。それより何より彼女があの大 物を成し遂げた気力に感心した。/あれだけの人を動かし、あれだけの舞台を 実現するには随分金を遣ひ、人に頭も下げた事であらう、彼女が自分の芸術の 為に、あれだけの犠牲を払つたのは感心な事だ。僕の六十の時は敗戦の直後で もあつたが引込思案で楽をする事ばかり考へていた。どうも女の方が気力が有 る様だ。/彼女があれだけの芸者になつたのも故なきにあらず。序でがあつた ら僕の祝辞を伝へて置いてくれたまえへ」。 一筆は「○○君に宛てた私の手紙 お気に適ひました由、喜ばしく思ひます。それを保存なさるとは少々物好きと 思ひますがまあ御自由になさつて下さい。 小泉信三 新橋 染福 様」。

 下田実花さんは、追悼句を五句寄せた。 <目に見えて常盤木落葉はらはら と><梅雨にやや早き寒さと思いつつ><ナイターのつたなき句をば好まれし >などだが、その最後の句は、虚子選に入り、『手鏡』という句集にもある<ナ イターのヒットのHすぐ消えし>だそうだ。 「この人は野球もわかると見え て、ナイターの句がありますよ」と、同席のお客様によく話してくれたという。

 『小泉先生追悼録』には、小泉信三さんたちが第一ホテルで「三人のおかみ さんをなぐさめはげます会」をして下さったと、「はち巻岡田」の岡田こうさん が「先生のごひいき」、出雲橋「はせ川」の長谷川湖代さんが「やさしいお言葉」 に書いている。 もうひとりのおかみさんは、蕎麦屋の「よし田」。 天ぷらハ ゲ天店主・渡辺徳之治さんの「私の如き者にまで」、日本橋檜物町「料亭奥むら」・ 奥村りんさんの「立派な先生」もあり、小泉信三さんが志ん生の全快したお祝 いを料亭奥むらで開いた写真もある。