福沢書簡の、楫取素彦と新井領一郎2015/12/24 06:21

 2月2日の当日記「小田村伊之助、群馬県令・楫取素彦となる」には、つぎ のように書いた。 「明治5(1872)年、足柄県参事となり、明治7(1874) 年に熊谷県権令、明治9(1876)年の熊谷県改変に伴って新設された群馬県令 に就任した。 伝統産業の養蚕・製糸業を奨励し、また教育にも力を入れるな ど、草創期の群馬県政に大きく貢献した。  明治14(1881)年、妻寿が43歳で死去、明治16(1883)年、久坂玄瑞の 未亡人であった寿と松陰の末妹・文(美和子)と再婚した。 翌年、元老院議 官に転任、その後、高等法院陪席裁判官・貴族院議員・宮中顧問官などを歴任、 明治20(1887)年には男爵になった。 大正元(1912)年、山口県三田尻(現、 防府市)で84歳で死去した。」

『福澤諭吉書簡集』の索引を見ていたら、その楫取素彦らしい人物が、『伝記 小泉信三』を著した神吉創二さんの高祖父・岡本貞烋(さだよし)宛の明治12 年1月29日付書簡(No.303)に出て来た。 岡本貞烋は当時、群馬県御用掛 准判任だったが、12年末には福沢から交詢社創設事務の担当を委嘱されること になる。 手紙は、岡本から贈られた漢詩の感想を述べ、新年に当って作った 漢詩を返しているものだが、その追伸に「香取先生(「群馬県令楫取素彦か」と 注にある)へ別段手紙さし上不申、御序之節宜敷御致意奉願候。」とある。 福 沢は、楫取とも面識があったと考えられるのだ。

『福澤諭吉書簡集』の索引を見たのは、『花燃ゆ』にも出て来た「星野長太郎」 「新井領一郎」兄弟について、福沢との関係を調べたいと思ったからだった。  「星野長太郎」は、群馬県初の民間洋式器械製糸所である水沼製糸所の創業者 で、帝国議会衆議院議員を務めた。 実弟の「新井領一郎」は、明治9(1876) 年日本製生糸の市場開拓のためニューヨークに渡り、佐藤百太郎の「日本米国 用達社」を拠点に活動を開始、水沼製糸所の生糸を仲買商リチャードソンに直 売、外国人居留地外商を経由せずに、日本人初の生糸直輸出を実現した。 明 治11(1878)年、生糸の輸入販売拠点の屋号を「佐藤・新井商会」と改めて新 規開設した専売店を移す。 明治26(1893)年には、森村市左衛門・森村豊 (とよ)(森村ブラザーズ)とのパートナーシップで生糸輸入販売会社「森村・ 新井商会」を設立した。

福沢の長男一太郎と次男捨次郎は、明治16(1883)年6月アメリカに留学 した。 ニューヨークに着いた両人宛の福沢書簡、明治16年8月17日付 (No.770)に「紐育にては新井氏と同居之よし。此人は星野長太郎と申(す) 上州生糸商之弟にて、宅へ参り面会致候事も之有、宣布(よろしく)御伝言可 被成。日本之生糸商は近来頻に米国\/とのみ申居候。或は送品之ヲーバソッ プライ(oversupply(供給過剰))は有之間布(まじく)哉抔(かなど)、巧者 之人は申居候。」と、書いている。 一太郎と捨次郎の生活は、現地の森村ブラ ザーズや甲斐商店に勤務する福沢門下生たちに支えられた。

明治20年10月8日付(No.1229)の一太郎・捨次郎・福沢桃介(明治20 年2月に留学)宛書簡には、「牛場之お田鶴さんが新井領一郎に婚し、今度夫 婦同伴、紐育に参候。」とある。 「牛場之お田鶴さん」は、初期の福沢門下生 で、山陽鉄道社長・会長を務めた牛場卓蔵の娘。 新井領一郎・田鶴夫妻の孫、 松方春子は駐日大使を務めたエドウィン・ライシャワーの妻ハル・松方・ライ シャワーとなるのだが、新井領一郎と家族の話は、また明日。