平山洋さんの『福澤諭吉』、軍事専門家・福沢2016/03/19 06:33

 ちょいと脱線して、雑談。 「ワークショップ」というのが、わからなかっ た。 ごく少人数だったので、最後には私も珍しく質問させてもらったりした、 気楽な雰囲気の会だった。 『広辞苑』で「ワークショップ」を引いたら、「所 定の課題についての事前研究の結果を持ち寄って、討議を重ねる形の研修会」 とあった。 私は事前研究などしなかったけれど…。

 前の席に、静岡県立大学の平山洋さんがいらして、休憩時間などにお話する 機会があった。 平山さんとは、西川俊作先生にご紹介いただいて知り合い、 ミネルヴァ日本評伝選『福澤諭吉』出版前の原稿を読ませてもらったりしてい た。 横井左平太について、熊本や宣教師フルベッキから、新島襄の同志社と 熊本バンドのことをお話すると、平山さんは大河ドラマ『八重の桜』の伊勢時 彦はドラマでは触れられなかったけれど横井小楠の息子・横井時彦(同志社第 3代総長)ですからね、と教えてくれた。 横井小楠が、耶蘇教徒・共和論者 と見られて暗殺されたので、一時期伊勢時彦を名乗っていたらしい。

 平山さんがした質問であったか、横井左平太がアナポリス海軍兵学校に入学 できたことについて、アメリカという国はなんとも懐の深い国だ、もっともウ エストポイント陸軍士官学校には入れなかったけれど、という話が出た。 そ れで私が思い出したのは、平山さんが『福澤諭吉』で特筆された一つが『ペル 築城書』の翻訳など福沢諭吉の軍事専門家としての側面だったことだ。 それ をお話すると、福沢はそれを秘匿していましたからね、と言われた。

 改めて平山洋さんの『福澤諭吉』で、関連の箇所を拾ってみる。 福沢は、 長崎の砲術家山本物次郎の書生として、山本家所蔵の砲術書を管理し、そこか ら学んで、師匠にも尋ね、その技術を自分のものとしていったようである。 諸 藩の西洋家、たとえば宇和島藩(大村益次郎と推定されるが、福沢は秘匿)、五 島藩、佐賀藩、水戸藩などの人々が、学びに来たのを福沢が応接した。

 奥平壱岐の『ペル築城書』を借りて、密かに写し取った。 適塾で、福岡藩 主黒田長溥(ながひろ)が緒方洪庵に貸したワンダーベルトという物理書を写 し取った。 アンモニア製造など工芸技術を熱心に研究したのは、福岡藩主黒 田長溥の依頼による最新兵器としての電信機の製造、国産化実験だった。

 福沢が江戸で塾を開く遠因となったのは、嘉永2(1849)年12月の老中阿 部正弘による海防通達だった。 諸藩が自ら海防の策を建て、研究し実行に移 すことを要求した。 翌年、奥平壱岐や福沢の師匠である野本真城(しんじょ う)は、『海防論』を著した。 中津藩は、海防通達によって西洋砲術の導入の 必要性を感じ、半年後には江川英龍門下の砲術家である信濃国松代藩士佐久間 象山を軍事顧問として採用し、象山は4年間、二本榎(現・高輪)の下屋敷で 藩兵の軍事教練などを行った。 その時の世話人は、江戸詰めの軍学者島津良 介を中心として、良介の跡取りである島津文三郎、さらに岡見彦三・土岐太郎 八らであった。 福沢は、その8年後岡見の周旋で江戸に着任し、さらにその 2年後島津夫妻の媒酌のもと土岐の娘と結婚することになる。 江戸最高の砲 術家、佐久間象山の門人帳『及門録』には、中津藩士島津、岡見のほか、山本 覚馬(会津藩)、勝海舟(幕臣)、津田真道(津山藩)、小林虎三郎(長岡藩)、 吉田松陰(長州藩)、加藤弘之(出石藩)、河井継之助(長岡藩)、橋本左内(福 井藩)の名もある。

 安政5(1858)年10月中旬に、福沢が江戸に着任したとき、中津藩から求 められたのは、オランダ語の教育というよりむしろ軍事書原典の翻訳にあった と推測できる。 彼は何より砲術の専門家として扱われた。 江戸家老奥平壱 岐は、福沢が『ペル築城書』を盗み写したことを知っていて、適塾でやってい たその翻訳を江戸で福沢塾最初の仕事『経始概略』として完成させ、提出させ たらしい。 その後、福沢が出版した翻訳書は、ライフル銃の取り扱いを説明 した『雷銃操法』、歩兵マニュアル『兵士懐中便覧』、陸軍部隊の運用方法を解 説した『洋兵明鑑』だった。

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