大同電力・東邦電力の設立、二人の電力事業観 ― 2016/06/10 06:22
桃介は、1913年1月再び名古屋電燈常務取締役に就任、経営改革を実施する。 協力者に前出の*岩崎久弥(ポケットマネー200万円出してくれる)、*下出民義、* 矢田績。 名古屋市の市営にしたい動きと戦う。 1921年までの桃介の名古 屋電燈時代には、木曾電気製鉄の設立(1918年):発電部門の分離、大阪送電 の設立(1919年): 送電部門の分離、「大同電力」の設立(1921年): 発送電 部門の統合が行われた。 桃介の関心はサプライ・サイド(水力発電の開発は 無限、多雨で急峻な地形)に、松永の関心はディマンド・サイド(市場へのサ ービス、料金引き下げ)にあった。
松永の九州電燈鉄道は1913~20年に九州北部の電力会社12社を合併・買収。 1914年7月には日本瓦斯の九州関係11社を合併し西部瓦斯会社創立、取締役 社長に就任。 1917年4月博多商業会議所会頭、衆議院議員(新政会)(~1920 年2月)。 1921年10月関西水力電気が、名古屋電燈を合併し、関西電気に 改称する。 12月関西電気株主総会で桃介社長退任⇒伊丹弥太郎社長、松永副 社長就任。 関西電気、1922年6月までに知多電気など8社を合併。 1922 年5月関西電気、九州電燈鉄道を合併、6月に「東邦電力」に改称、桃介相談 役就任。 1925年3月群馬電力と早川電力合併し、東京電力創立、松永副社長 就任。
桃介と松永の電力事業観だが、上記のサプライ・サイド、ディマンド・サイ ドという関心の違いのほか、桃介は株主本位、松永は配当より料金引き下げ、 小売に力入れた。 桃介は競争回避、妥協する(「大同電力」の設立の例)が、 松永は徹底的競争(東京に進出、東京電燈をやつけ、東京電力(古い)つくる)。 二人の考え方は、1923年の大阪電燈買収問題で、決定的に分かれる。 松永は、 市場の2/3を押さえられるので、全国に効率的電力網がつくれると考えたが、 構想は流れた。
桃介の葬儀は築地本願寺で盛大に営まれたが、松永は家族で葬儀をし、公表 しないことを望んだ(2014.3.22.の当日記に引いた遺言状に「一つ、死後の計 らいの事、何度も申し置く通り、死後一切の葬儀、法要はうずくの出るほど嫌 いに是あり。墓碑一切、法要一切が不要。線香類も嫌い。」とある)。
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