鎌倉『ツバキ文具店』実は代々の代書屋 ― 2016/06/13 06:23
鎌倉を舞台にした、最新の小説を読んだ。 小川糸さんの『ツバキ文具店』 (幻冬舎)である。 ツバキ文具店は、鎌倉宮に沿った二階堂川の奥にある。 装画のしゅんしゅん描く「鎌倉案内図」によると、建長寺の裏山(半僧坊)を 登って天園ハイキングコースをぐるりと回り、下りたあたり、「小高い山のふも とにある、小さな一軒家」だ。 ぜんぜん知らなかったが、小説によれば、こ の山の方の、鎌倉の湿気は、半端じゃない、そうだ。 焼きたてのフランスパ ンはすぐにふにゃふにゃになってカビが生えるし、本来は硬いはずの昆布です ら、ここでは腰が抜けたようになってしまう。
主人公は雨宮鳩子、以前は先代である祖母と住んでいたのだが、三年ほど前 に先代が亡くなって、古い日本家屋に一人で暮らす。 鳩子の名は、先代が鶴 岡八幡宮の鳩、「八」の字に二羽の鳩が寄り添う形からつけた。 物心がついた 頃には、みんながポッポちゃんと呼ぶようになっていた。
近くに小学校のある文具店で、入口に家全体を守るように藪椿の木が生えて いる。 文具屋は表向きで、雨宮家は江戸時代から代々続くとされる、由緒正 しき代書屋なのだ。 代々、家業を女性が継ぎ、先代はその十代目、鳩子は十 一代目ということになる。 六歳の六月六日から、厳しい修業が始まった。 墨 を磨るのからして、上手にはいかず、先代の容赦ない雷が落ちた。 早く磨ろ うと墨を斜めに持つと、すぐに手を叩かれた。 平日は、夕飯が済むと習字の 時間だった。 二年生までは一時間、四年生までは一時間半、六年生までは二 時間、先代がつきっきりで指導するのである。 一日休むと取り戻すのに三日 かかると口酸っぱく言われていたため、林間学校や修学旅行にさえ筆ペンを持 参し、先生の目を盗み盗み練習した。 それが当たり前なのだと信じて、疑う ことすら思いつかなかった。
先代は、美しい字には徹底してこだわり、死ぬまで精進を続けた人だ。 け れどその一方、独りよがりになることは常に戒めていた。 「いくら能筆だか らってさ、誰も読めないような字で書いたんじゃ、粋を通り越して、野暮って もんだよ」が、口癖だった。 どんなに美しい字を書いても、それが相手に伝 わらなくては意味がないというのである。 達意簡明であることがもっとも重 要であり、代書屋は書道家とは違うということを、鳩子は幼い頃より頭の中心 に叩き込まれた。
高校一年生の時、初めて抵抗した。 代書について、「こんなのインチキじゃ ん! 全部、出鱈目でしょ、嘘っぱちじゃないの」と。 先代は、手紙を書き たくても書けない人がいるんだよ、代書屋は、昔から影武者みたいなもので、 決して陽の目は見ない、だけど、誰かの幸せの役に立つ、感謝される商売だと 言う。 誰かに感謝の気持ちを伝えるために、お菓子の折詰を持って行くだろ う。 自分でお菓子を作らなくても、お菓子屋さんで一生懸命選んで買ったの だって、気持ちは込められるんだ、と。
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