庭の雨蛙と「虚子の「存問」の句」 ― 2018/07/17 07:08
ここひと月ほど、マンションの専用庭に雨蛙が住みついて、雨が降りそうに なると、ちゃんと鳴くのである。 暑い日が続いて、とても雨など降りそうに なくても、雨蛙の鳴き声がすると、少し曇って来て、やがて雨が降って来たり する。 余り話題のない夫婦に、毎朝咲く朝顔の数や色と同様に、格好の話題 を提供するのだ。 芥川龍之介に、<青蛙おのれもペンキ塗りたてか>という 俳句があることなどの話になる。 最近のCMのセリフは、「おのれ」でなく、 「貴様」だが…。
子供の頃、父に連れられて鮒を釣りに、東横線と南武線が交差する武蔵小杉 の駅の横にあった池に行った。 今は都会になっているが、当時はまったくの 田園風景で、クチボソなど釣って池の周りで遊んでいると、葦の葉にいる雨蛙 を捕まえることができた。 それを家に帰って庭に放しておく。 すると雨が 降りそうになると、鳴き出すのだった。 何日か経つと、二、三軒先の家で、 鳴いていたりした。
マンションの雨蛙の鳴き声は、上の階にお住まいの方も聞いていて、話に出 たりした。 すると先日、すぐ近くの美容院の前の側溝に、カルガモの親子が いるのを見つけて、どうしようかとなって、美容院の人が警察に連絡したら、 警察がしかるべく扱ってくれた(多摩川だと危ないので、別の場所に放したとか)のだそうだ。 マンシ ョンの地所は昔、お屋敷の池があったとか聞いている。 そんな自然が、自由 が丘の街への一本裏にも、残っているのは、何か嬉しい気がする。
俳人の安原葉さんが、7月8日の朝日新聞朝刊俳句欄のコラム「うたをよむ」 に、「虚子の「存問」の句」を書かれた。 「存問」(そんもん)とは本来、安 否を問う日常の挨拶の意味、だそうだ。 安原葉さんは、来年は高浜虚子没後 六十年を迎える、と始め、晩年の虚子の謦咳に接することができたという。 縁 あって昭和29(1954)年からの千葉県鹿野山神野寺での稽古会、虚子を選者 として東西の若人たちが俳句を詠み競う二泊三日の鍛錬会に参加したからだ。 その句会で、虚子の<明易や花鳥諷詠南無阿弥陀>は生まれた。 「この句に ついて虚子は、自身の信仰を表した句であると述べたが、虚子が昭和三年に提 唱した「花鳥諷詠」は、晩年には「存問の詩」と深まり、その膨大な実作を通 して、揺るぎない救済の確信に到ったのである。」 昭和31年の稽古会では、 <蜘蛛に生れ網をかけねばならぬかな>と詠まれた。 「小さな蜘蛛の営みを 通して蜘蛛のいのちにたいする存問となり、さらには、全てのいのちにたいす る存問、いのちそのものに対する存問の詩として詠まれたのである。」と。
猛暑日が続いているが、庭の雨蛙は、耐えてくれるだろうか。
最近のコメント