浅利慶太さん、GHQの方針からの出発2018/07/20 07:12

 演出家・浅利慶太さんの死去(85)を伝える18日夜の「報道ステーション」 で、インタビューに答えている過去の映像に聞き捨てならない話があった。 そ もそも演劇の道に入ったのは、高校1年生の時に、GHQの方針で、生徒は何 らかの部に入らなければならなくて、担任の先生がたまたま演劇部をやってい て、入れと言われ、体育会のノリで「はい」と言った。 演劇部に入って、裏 方をやっている内に、その面白さにはまってしまったのだそうだ。 慶應義塾 高校だろう。 1953(昭和28)年、大学で日下武史さんたちと劇団四季を立 ち上げた。 実は日下武史さんは、ジヤーミネーターの会の先輩なので、慶應 義塾高校在学中は新聞会にいた、演劇部と掛け持ちだったかどうかはわからな い。 高校新聞の発行なども、GHQの方針があったのだろうか。

 「GHQの方針で、生徒は何らかの部に入らなければならなかった」という のは、初めて聞いた。 そういえば、六三制の二年目、1948(昭和23)年に 小学校に入った私は、カタカナを習わず、ローマ字は習った。 学級の机を班 ごとの島形にまとめて、班長を選んで、授業を受けたり、図書部に行って、何 か意見を言えと、求められたりした。 あれも、GHQの方針があったからな のだろうか。

 浅利慶太さんは、1961(昭和36)年に東京・日生劇場の営業担当重役に就 き、劇団四季で「演劇で飯が食える」ことを目指し、東京だけでなく「全国で 公演する」ようにする。 ちょうど、私は大学から社会人になり結婚した時期 で、日生劇場の素晴らしさにも魅せられて、初期の劇団四季のジロドゥの『オ ンディーヌ』(影万里江だったか)やジャン・アヌイの『アンチゴーヌ』を観た し、浅利さんの演出した越路吹雪のロングリサイタルは何度も通っている。 し かし、70年代のブロードウェー・ミュージカルや、1983(昭和58)年の『キ ャッツ』以後の専用劇場での展開は観ていない。 ただ『李香蘭』だけは、2002 (平成14)年にテレビ中継を見た。

 その中継のあと、浅利さんのインタビューがあり、「劇団四季の50年<小人 閑居日記 2002.12.18.>」というのを書いていた。

 『李香蘭』の中継のあと、劇団四季の浅利慶太芸術総監督のインタビューが あった。 1953(昭和28)年に慶應高校の演劇仲間を中心に創立された 劇団四季は、来年50周年を迎えるそうだ。  フランスの芝居で始めて、「“当 り”なくして演劇なし」と言ったルイ・ジュベの言葉どおり、人生が生きるに 値するものだという感動を伝える、お客の入る芝居、自分が退屈する人間なの で、その「自分が退屈しない芝居」をめざしてやってきた。 ブロードウェー のミュージカルを取り入れた当初は、感動を与え面白く見せる技術が30年く らい遅れていたのが、今は20年くらいに縮まっただろうか。 83年に新宿 のキャッツ・シアターでロングラン公演が出来るまでになり、次第に国内のミ ュージカル作品でもお客さんが入るようになった。 仮設の劇場や専用の劇場 もつくった。 もちろんストレート・プレイの路線も続け、「東京一極集中排除」 の方針で、地方での小さな公演も大事にしている。 50周年を記念して汐留 につくった新劇場「海」のこけら落としで、ミュージカル『マンマ・ミーア!』 の上演が始まっている。