織田信長のつくった城2020/08/05 06:18

 城郭考古学者の千田嘉博奈良大学教授が、NHK文化講演会で「戦国の城から歴史を読む」という話をしたのが(6月27日横浜で講演、7月19日放送)、「らじるらじる」で聴ける。 千田嘉博教授には、家康築城時の江戸城、最古級絵図の新発見<小人閑居日記 2020.6.5.>と、家康の江戸城は史上空前最強の城<小人閑居日記 2020.6.6.>にも登場いただいた。 その結論は、(1)本丸の出入口は織田信長の安土城、豊臣秀吉の大坂城が用いた外枡形を5連続させた熊本城のようなつくり。 (2)天守は、大天守と小天守が連立して天守曲輪を構成した姫路城のようなつくり。 (3)つまり家康の江戸城は、熊本城と姫路城のすぐれたところを合わせた史上空前の最強の城だった。

 「戦国の城から歴史を読む」は、織田信長、松永久秀、明智光秀の造った城を検討し、決定的なところで、城の造り方が違うという。 (松永久秀については、松永久秀、天下人三好長慶のNo.2<小人閑居日記 2020.6.27.>参照。)

 信長は、尾張城の生まれとされるが、勝幡(しょばた)城の生まれ、父の信秀は尾張の守護斯波氏の下の守護代の、そのまた下の奉行だったが、海と河川交通の要衝、津島を押さえていて、信長は子供の時から、交易流通の重要性を見ていた。 勝幡(しょばた)城(現在の愛西市、稲沢市)は、広い堀、四角い土手に囲まれ、整った御殿(館・公家の証言)があった。

 信長の清洲城(新幹線で通過する)は、まわりに武士の館、さらに町家が囲み、堀で囲む総構えの構造。 元亀3年(1572)年の三方ヶ原の戦いでは、町人も戦っていて、武具商が戦死している。 尾張統一時代の苦労が偲ばれる。

 小牧山城。 信長が永禄6(1563)年に築城し、永禄10年に稲葉山城を取るまで、4年間使う。 周辺に城下町を配した、自分らしい拠点をつくった。 千田嘉博さんは、20代でここの論文を書いたが、後の発掘で、研究通りの町が出たという。 小牧市役所前の石畳から、庁舎内に色の違うラインが延びているが、大手道のセンターライン、信長の歩いた道である。 小牧山城は、本格的な城で、大手道は山の上まで延び、中腹からジグザグの道になる。 本丸には、自分の周りを守る立派な石垣、せいぜい3mだがセットバックさせている、を巡らした(当時、全国は土造りの城)。 安土城では、小牧山城からの、技術革新で10mの石垣、人工的に岩を削り、その上に石垣を築いた。 一番上に本丸がそびえる、超特別感、御殿の周りには玉石を敷き詰めた。 家臣の屋敷には、石垣を使わせない。 階層的なつくりになっている。 城下町の一つの原型で、城の形、大名と家臣の関係など、どういう社会をつくろうとしているか、見えてくる。

 岐阜城(稲葉山城)、300mの高さ(ロープウェーは当時なかった)なので、信長は麓に暮らしていたと長い間考えられていた。 ルイス・フロイスは永禄16(1569)年に麓の御殿で布教の許可を得、翌日、重臣でも登れなかったクローズドの空間だった、山の上の城へ行った。 信長は、そこで夫人と子供たちと暮らしていた。 昼、信長の息子が食事を運んできてくれた。 プライベート空間は天空の上にあり、家臣と自分は違う、2016年の発掘で濃姫のために建てた金箔の御殿が出た。

 安土城。 信長の権威を印象づける。 基本的には小牧山城と同じつくり。 本丸の上に天守、7階建天守台があり、石垣で囲み、外枡形をいくつもつくる。 信長を頂点とする社会をつくろうとしていた。