信長の安土城と、光秀の坂本城2020/08/07 07:09

 6月5日にBSプレミアムで放送された「絶対行きたくなる! ニッポン不滅の名城 明智光秀の城」という番組を録画していたのを忘れていた(もともと2019年12月28日放送)。 城郭考古学者の千田嘉博さんと、『麒麟がくる』の時代考証を担当した歴史学者の小和田哲男さんが現地を歩く。 明智光秀と織田信長、二人の造った城を見れば、千田さんは二人の関係がこじれていった「本能寺の変」の真相が分かる、小和田さんは二人の領民に対する考え方の違いが見えてくるという。 明智光秀は、謀反人か、新しい世を開こうとした名将か。

 千田嘉博さんが、まず信長の安土城(近江八幡市)、高さ199mに登る。 180mの大手道が山腹に伸びる、両脇に家臣の屋敷があった、途中、摠見寺の二王門と三重塔が当時の姿を伝えている(これは全く知らなかった。信長の自己神格化、摠見寺建立<小人閑居日記 2020.7.31.>参照)。 一段の奥行が長い階段は急で、安土城は山城だとわかる。 圧倒的な石垣が、城全体を囲む、技術の限界という。 土造りの中世的な城から、石垣を持った江戸時代の城へのターニングポイントになった城。 天主(と表記していた)の石垣は高さ20m、自然石を積み上げた高度な技術で、家臣が分担して工事したから、光秀の手掛けたものもあったろう。 天主は30m、金箔瓦や鯱、当時瓦は寺院等に使われただけで城には使われていなかった。 安土城は城郭革命であった。

 千田さんは次に、光秀の造った琵琶湖畔の坂本城跡(大津市)を訪ねる。 実は坂本城、安土城より前に、そこで城郭革命が始まっていた。 ルイス・フロイスは、坂本城の豪壮華麗さは信長の安土城に次ぎ、こんな有名なものは天下にない、と書いている。 本丸跡は、平成6(1994)年の琵琶湖渇水時に発掘調査が行われ、胴木の上に積んだ34mの天守の石垣、舟入(安土に渡る船着場)の石積みが確認され、全国に先駆けた石垣の城だったと判明した。 見事な龍の鬼瓦、軒丸瓦(三つ巴文)も出土した。 坂本は、山岳寺院である比叡山の門前町で、城下のいたるところに石垣がある。 安土城と同じ、職人の技術だ。 坂本は、門前町であると同時に港町、陸上交通の要衝であり、商業都市だった。 光秀は、比叡山延暦寺に代わって、この地を掌握、坂本城は新しい時代をつくるための城だった。 信長の安土城も、光秀の坂本城も、そうした革新的な城であった。