「金田中 草」で「神無月」を味わう2020/10/11 07:40

 一新された渋谷を探検しに行って、新たな歩行者デッキなどを歩いてみた。
セルリアンタワー東急ホテルの「金田中 草(そう)」で、昼の御膳「神無月」
を食した。 家内が友人とする会食の下見だったが、何日か前に結婚51年を
迎えていた、ささやかな祝いの気分もあった。 時節柄、テーブルはゆったり
と配置してあり、秋の七草をアレンジした花が活けてある。

 [初皿](板、紅葉した柿の葉の上に)鴨ロース煮、焼葱。
(板、偏鉢)柔らか胡麻豆腐・胡桃味噌。
 [汁物]秋の沢煮椀(平茸、占地(しめじ)、菊花、水菜、牛蒡、九条葱…豚背脂、黒胡椒味付け)。
 [蒸物](白木長方盆、銀杏の葉)尼鯛の酒蒸し(上身、あら、豆腐、水菜、椎茸…昆布敷き。タレは浅月、一味、ぽん酢)。
 [煮物](銀箱)和牛と秋茸の玉子綴じ(和牛切落し、舞茸、占地、牛蒡、粉山椒)。 
 [食事](テーブル上の釜で炊いた)(白木椀)ご飯、赤出汁(豆腐)、香の物。
 [甘味]あんみつ。

「暮の秋」と「甘藷」の句会2020/10/12 07:09

8日は『夏潮』渋谷句会、会場の渋谷区リフレッシュ氷川での開催は、1月に開いて以来だった。 コロナの影響で、3月、4月は中止、5月、6月、7月、9月は、メールによる通信句会を行っていた(2月、8月は例年休み)。

 兼題は「暮の秋」と「甘藷」、私はつぎの七句を出した。
もういくつ寝ると死ぬのか暮の秋
山茶花を嫌ふ俳人暮の秋
最後の蚊に刺されてやりぬ暮の秋
甘い物藷飴のみの敗戦後
藷飴を割ればお皿も共に割れ
議事堂の前を耕し薩摩芋
那珂湊浜一面に芋を干し

 私が選句したのは、つぎの七句。
欄干に頬杖の子や暮の秋     賢
暮の秋音をのみ込む秋田杉    由紀
後悔のぽちぽちと湧く暮の秋   耕一
藷供へありて昆陽先生碑     英
農道へ沸き出てをりぬ甘藷蔓   なな
道の駅斎藤さんの甘藷にす    由紀
掘り立ての甘藷を顔の両脇に   淳子

 私の結果は、<もういくつ寝ると死ぬのか暮の秋>を、ななさんが採ってくれて、みなさんがワハハと笑った。 主宰選ゼロ、互選はこの1票のみ、あやうくスコンクを逃れた、トホホであった。 甘藷、サツマイモというと、つい、子供の頃のことが頭にひっかかってくる。 父は、家の近くの地主さんの屋敷の中に地面を借りて、芋畑をつくっていた。

 会場での句会では、本井英主宰の講評を聴くことができるのが、有難い。 季題「暮の秋」は、説明になってしまうので、ある気分が伝わるかどうかにかかる。 「甘藷」は、どのくらい「甘藷」を知っているか、だ。 兼題の句会は、季題があって七十五年の人生を襞の細かいものにしてくれたことを感じる。

 私も採った句の、主宰選評。 <欄干に頬杖の子や暮の秋>…面白い句。橋か、お堂、橋だろう。子供の心の中に分け入ってみると、屈託があるのだろう、冷やっとした気分。情をかけすぎてはいない。 <暮の秋音をのみ込む秋田杉>…杉生(すぎふ=杉の生えた所)の美林。目はパンニングして距離感、大景を詠む。 <農道へ沸き出てをりぬ甘藷蔓>…「沸き出て」を、どうかと思う人もいるだろうが、甘藷の蔓の繁茂は独特。 <道の駅斎藤さんの甘藷にす>…旅行の浮き浮きした気分で、薩摩芋を選んでいる気楽さ。 <掘り立ての甘藷を顔の両脇に>…上手い句、面白い。写真を撮っている。自信がある。

井波律子さん、映画2千本観て育った中国文学者2020/10/13 06:54

 中国文学者の井波律子さんが、5月13日に76歳で亡くなった。 新聞の訃報や評伝を読んで、身近な感じがしたのは、年齢が近いせいもあるが、小学生のころ、京都・西陣の家に近い映画館街に通いつめ、中学に入る前に都合2千本も観て、自分を「耳年増」と表現していた、というからだった。 私も両親や、5歳上の兄に連れられて、2千本とまではいえないが、同じ時期の映画を沢山観ている。

 そんな井波律子さんだから、「天声人語」子は、彼女の手にかかると、教室であれほど無味乾燥だった中国史の登場人物にたちまち血が通う、たとえば王莽(おうもう)、前漢を倒し、新という王朝を興した男を「裸の王様」と呼び、聖人君子のふりを演じ続けたペテン師と切り捨てた、と書く。

 名誉教授の井波さんを、国際日本文化研究センター所長の井上章一さんは、こう書いている。 完訳『三国志演義』の翻訳進行中、こぼれ話をしばしば聞いた。 『演義』では、呂布(りょふ)がイケメンになっているけれど、後世が、彼の美形伝説をふくらませたのよ。 だけど、周瑜(しゅうゆ)は正史の『三国志』でも、美将とされていた。 彼の美貌は史実ね。 『三国志曼荼羅』の、関羽と部下の惜別場面の翻訳では、涙がとまらず、ほとんど慟哭しながら、キーボードを叩きつづけた。 読み手の感涙をそそろうとする通俗読み物の手管に、ひややかな目をむけてはいない。 そこはわかったうえで、涙がながせる人だった、と。 そして、エンタメ文芸への共感のいっぽう、井波さんの文章も、機知の心地良さには心をくだいていた、と書いている。

 井波律子さんの本を、読んでみたくなるではないか。 と、本棚を見たら、井波律子著『奇人と異才の中国史』(岩波新書)が積ん読にしてあった。 書評でも見て、買ったのだろう。

知らなかった孔子の生涯や『論語』の成立2020/10/14 07:06

 と、いうわけで、井波律子著『奇人と異才の中国史』(岩波新書)を読む。 福沢先生が自らは漢学をかなり学びながら、後年、儒学をボロクソに言ったためではないだろうが、慶應義塾志木高校では、漢文がなかった。 「孔子」についても、落語の「厩火事」の人物像しか知らないのである。 「孔子」とは、いったい、どんな人だったのか。 井波さんは、新書3ページ弱にまとめている。 I 古代帝国の盛衰 1 すべての始まり―春秋・戦国・秦・漢 の最初の人物である。

 孔子(こうし)―「仁」と「礼」の政治を求めて(思想家 春秋 前551-前479)。 「儒家思想・儒教の祖、孔子あざな仲尼(ちゅうじ。本名は孔丘(こうきゅう))は諸国が分立した春秋時代(前770-前403)の乱世に、魯(ろ)の国で生まれた。」 低い階層の出身で、父母は正式に結婚した夫婦ではなかったとされる。 幼くして両親を失い、貧窮のうちで成長した孔子は苦労して学問を修めた結果、三十代で優秀な学者と認められ、しだいに弟子もふえた。

 優秀な学者であると同時に、現実の社会や政治に関与することを望んでいたが、紀元前499年、魯の君主定公(ていこう)が学者として名高い孔子を抜擢し、大司寇(だいしこう・法務大臣)に任命した。 当時の魯でも下克上の嵐が吹き荒れ、三公族(君主の一族)がやりたい放題で、定公は孔子にこれを抑える役割を期待した。 孔子も周公旦(周王朝創設の功労者)の理想政治を再現しようと、懸命に努力したが、三公族を打倒できず、あえなく失脚し、紀元前497年、魯を去るに至る。 このとき、孔子はすでに55歳であった。

 以来、孔子は14年にわたり、「仁(思いやり)」と「礼(道徳慣習)」を基礎とする自分の政治理念を理解してくれる君主を求めて、諸国を遊説した。 しかし、ついに彼の主張に耳を傾けてくれる君主にめぐりあうことができなかった。 旅の途中で三度も生命の危機にさらされるなど不運つづきだったが、彼を敬愛する大勢の弟子が随行していたのが救いだった。 孔子は青白い知識人ではなく、身長九尺六寸(216センチ)の堂々たる偉丈夫、「長人」と呼ばれた。 心身ともに強靭でなければ、これほど長期の放浪生活を敢然と続けられなかったであろう。

 紀元前484年、68歳のときに、得ることの少なかった諸国遊説の旅をきりあげ、魯に帰った。 以後、73歳で死去するまで、弟子たちの教育に力をそそぐ一方、後世、「五経」と総称される儒家思想の五種の聖典、『書経』『礼経』『詩経』『易経』『春秋』の整理・編纂に専念する日々を送る。

 「付言すれば『論語』は弟子たちが著した孔子の言行録である。ここには、孔子と優等生の顔回や暴れん坊の子路をはじめ、ユニークな弟子たちとの対話が臨場感ゆたかに再現されている。挫折や失敗に屈することなく、ときにユーモアをまじえつつ、自分の思想を伝えようとする孔子。常に師に問いかけながら、その教えの真髄を吸収しようとする弟子。『論語』はこうした師と弟子の自由な対話のなかから、原始儒家思想が形づくられてゆくさまをいきいきと描いた稀有の記録である。」

『左伝』十一たびの福沢、「左伝癖」の杜預(どよ)2020/10/15 07:05

 『福翁自伝』に、福沢諭吉は『左伝』が得意で、十五巻のうち、たいがいの書生は三、四巻でしまうのを、全部通読、およそ十一たび読み返して、おもしろいところは暗記していた、とある。 富田正文先生の校注に、「左伝は、春秋左氏伝のこと。春秋という史書につき左丘明が解釈を加えた書。」とある。

 井波律子著『奇人と異才の中国史』に、杜預(どよ)―透徹した批評精神(歴史家・軍事家 西晋 222-284)がある。 「西晋の杜預あざな元凱(げんがい)は大軍事家であり、また大歴史学者でもあった。「とよ」ではなく、「どよ」と読むのが慣例である。」 杜預の祖父杜幾(とき)は、曹操政権の重臣として活躍する一方、学問を重視する人物だった。 父の杜恕(とじょ)も官界に入ったが、筋金入りの硬骨漢であり、魏の嘉平元年(249)、クーデタを起こして実権を掌握した司馬懿(しばい)に嫌われ、流刑の憂き目にあった。 杜恕は流刑地でめげることなく著述にはげみ、その学問重視の家風のなか育った杜預(28歳)も、倦まずたゆまず膨大な書物を読み続けた。

 杜預の人生が上げ潮に乗ったのは、魏末、父司馬懿の死後、実権を掌握した司馬師・司馬昭の妹と結婚したのが契機だった。 曹氏の魏から司馬氏の西晋への王朝交替期においても、内外の要職を歴任した。 西晋の咸寧4年(278)には荊州方面軍総司令官として、魏・蜀・呉の三国のうち唯一存続していた呉と対決、咸寧6年(280)総攻撃をかけ滅亡に追い込む。 杜預こそ西晋の全土統一の最大の功労者だった。

 中年以降、はなばなしくも慌しい公的人生を送りながら、自他ともに認める「左伝癖(『春秋左氏伝』に対する熱狂的愛好癖)」の持ち主だった杜預は、寸暇を惜しんで『春秋左氏伝』(以下、『左伝』と略称)の研究に没頭した。 『左伝』は、左氏が、孔子によって整理・編纂された魯の年代記『春秋』に注解を加えた解説書。 杜預の著した『春秋経伝集解(けいでんしっかい)』は、『春秋』の「経(けい・本文)」と、これに対する『左伝』の「伝(解説)」を実証的な方法で厳密に対応させつつ、体系的に解釈した作品であり、中国歴史学が確立するための大きな布石だった。

 福沢諭吉は、杜預の『春秋経伝集解』を読んだのだろうか。