「立憲の時代」の発足と終わり2020/10/30 07:13

坂野潤治さんは、中途にいろいろな出来事はあっても、1875(明治8)年から6年間の「立憲」への流れは一貫していたという。 「立憲派」内部における急進派と穏健派との関係も大きく違わず、やや突発的な75年9月の江華島事件以外には、「帝国」化をめざす勢力は抑えられていた。 議会開設に向けた穏健派の中心人物の一人は井上馨で、急進派のトップは板垣退助。 79(明治12)年から81(明治14)年にかけてのいわゆる自由民権運動は、75年の大阪会議の延長線上に位置づけて理解されるべきものだろう。

 井上馨は、江華島事件の後始末として、1876(明治9)年日朝修好条規(江華島条約)の調印に向け尽力したのち、イギリスの政治経済事情を調査するためロンドンに渡った。 ロンドン滞在中、留学していた福沢の高弟、中上川彦次郎・小泉信吉(のぶきち)らを毎週土曜日に自宅に招いて勉強会を開いていた。 この勉強会で重要な点は、井上自身も福沢の高弟たちも、先の大阪会議の時のように板垣らの「民撰議院論」に振り回されてはならないという自覚を強めたことだ。 井上は福沢系の政治思想を右寄りに理解しすぎたようで、1876(明治9)年10月木戸孝允への手紙に、次のように書いた。 当地滞在の福沢の書生三人、行跡よく勉強もしていて人物もすぐれている。 日本に居た時は、自由ばかり抽象的に唱えていたが、近年にはそれを大変悔悟して、至って保守的になり、民撰議院などもなかなか行われがたいことが分かって来て、現実的でなければ国に一番必要な富を増殖できないと主張し始めた。 小生宅で毎土曜日経済学の書を輪講し、その本を日本の実情にあてはめて論じ、大いに益を得ている。 真の学問を志す人、また真に憂国心ある人は、次第に保守的になってきて、なかなか楽しいことである。 急進することは宜しくないとの確信を強めた次第に候。

 井上馨は、1878(明治11)年5月の大久保利通内務卿暗殺を知ると、ただちに帰国の準備にかかり、7月には帰国して、参議兼工部卿として政府の中枢に返り咲く。 ロンドンで井上馨の知遇を得た中上川彦次郎は、井上が外務卿になった外務省の公信局長になり、井上馨の使いで福沢に政府系新聞の責任者にと依頼しに行くことになる。 だが、1880(明治13)年前後の井上馨には、「保守」と「急進」の二分法しかなかったのである。

坂野潤治さんは、1875(明治8)年4月14日の天皇の詔勅(立憲政体樹立の詔勅)を明治立憲制の発足として重視し、1881(明治14)年10月11日に明治政府内から大隈重信や福沢諭吉の高弟たちが放逐された「明治14年の政変」が起こり、いわゆる自由民権運動が敗北、翌12日公布された9年後に国会を開くという天皇の詔勅が「立憲の時代の終わり」を告げた、とする。 前者の1875(明治8)年の詔勅では、「漸次に国家立憲の政体を立て」る公約をしていたから、1881(明治14)年の9年後に国会を開くという詔勅は、6年足す9年、15年間の「先送り」になる。 それが坂野潤治さんが1881(明治14)年の詔勅を、「立憲の時代の終わり」を位置づける理由の一つである。

 「このあっけない幕切れは、保守派の井上馨と中道派の福沢諭吉とが、ともに相手の立場を自分のそれに引き付けすぎて理解したことにより、もたらされました。そしてこの「立憲」の幕切れの翌年(1882(明治15)年)の「壬午(じんご)事変」によって、「帝国」の時代が再び始まることになります。」