民衆が生んだ自由な絵画<等々力短信 第1136号 2020(令和2).10.25.>2020/10/25 07:32

 「欲しい!欲しい!欲しい! 何としても手に入れたい!」と、画家や文化人が思った大津絵。 「もうひとつの江戸絵画 大津絵」展を東京ステーションギャラリーで観て来た(11月8日まで)。 江戸時代初期から東海道の宿場町大津周辺で、無名の職人によって量産され、安い手軽な土産物として売られていた。 わかりやすく、ユーモアのある絵柄が特徴で、全国に広まったが、江戸時代の終わりと共に衰退する。 近代になって、大津絵の魅力を再発見する文化人が現れた。 文人画家の富岡鉄斎、洋画家の浅井忠、民藝運動の創始者柳宗悦から、梅原龍三郎、小絲源太郎、麻生三郎、染色家の芹沢銈介まで、目利きたちの旧蔵歴が明らかな、名品が150点展示されている。

 シンプルな線と色で、大胆に描かれ、よく扱われる題材がある。 《鬼の念仏》仏教の地獄から来た怪物である鬼が、墨染の僧衣をまとい、左手に奉加帳を下げ、右手に胸にかけた鉦を打つ撞木を持って、念仏を唱えている。 飛び出した真ん丸の眼、もじゃもじゃの髪に角、歯のほかに牙二本、猫のような髭。 角、顔、額、手足はオレンジ色、僧衣と髪は黒、眉毛、歯、牙、襟、襦袢は白、鉦を下げる紐は草色。 慈悲もなく情けもなくて念仏を唱える、誠なき人の姿に、心の鬼があらわれる、という道歌が添えられているものもあり、うわべだけの良い行いへの皮肉、ユーモラスな諷刺である。 体は洗っても心は洗えない《鬼の行水》、酒と盃を前に弾く《鬼の三味線》は同類だ。

 《猫と鼠》猫が鼠に酒を飲ませて、捕まえようとしている。 「鼠捕る猫は爪を隠す」、旨い話には裏がある、『トムとジェリー』に先駆けている。 《釣鐘提灯》猿が天秤棒で、釣鐘と提灯を担ぎ、軽いはずの提灯の方に傾いている。 釣鐘勧進の余興にあった人間の芸だが、道理が転倒した世相への諷刺という。 《瓢箪鯰》猿が瓢箪を抱えてむりやりナマズを押さえようとしている、猿智恵、思慮の足りない行動。

 やがて制作の効率化から画題が絞られ、諷刺や教訓から、護符(お守り)の役割を担う。 《藤娘》縁結び、《釣鐘弁慶》火難盗難除け、《矢の根五郎》悪魔除け、《槍持奴》道中安全、《座頭》転倒防止。 無病長寿の《外法の梯子剃り》、七福神の大黒が頭巾にフンドシ姿で梯子に登り、外法(げほう・福禄寿)の長い頭の月代を剃っている。

 風景画の巨匠「日本近代洋画の父」浅井忠(1856-1907)は、40代半ばで京都に移住、工芸デザインの世界に身を投じた。 大津絵を熱心に蒐集し、工芸を刷新するための諸要素をそこから汲み取った。 琳派や大津絵の和とアールヌーヴォーの洋を融合、「明治の光悦」と称された。 2012年7月放送の日曜美術館「近代デザインの開拓者 浅井忠」で見た陶磁器や漆器の斬新で愉快な図案は、目に焼き付いている。

志ん生の「大津絵」と小泉信三さん2020/10/25 07:47

 「大津絵」というと、このエピソードが思い浮かぶ。 大津絵節という俗曲は、江戸時代後期から明治にかけて全国的に大流行した三味線伴奏の短い歌謡で、宴席の座興や寄席で歌われた。 大津絵節の名は、近江国大津の追分・大谷あたりで売られた庶民の絵「追分絵」が、東海道を往来する旅人の土産物として喜ばれて、全国に「大津絵」の名で知られるようになり、その画材をよみこんで、元禄の終わり頃(1700年)から大津の遊里柴屋町の遊女たちが唄い始めたことによる呼び名と考えられるのだそうだ。

 小泉信三さんは、古今亭志ん生がたいへんな贔屓で、志ん生が病気で倒れる何年か前までは、毎年、暮の数え日という頃に、志ん生を座敷に呼んだという。 ある時、柳橋の料亭で、志ん生が「大津絵」の「冬の夜に」をうたうのを聴いて、小泉さんは突然ハンケチを眼にあてて泣いた。 それからは、三田の家でも、広尾に移ってからも、志ん生を呼んで、一席やってもらった後、これをうたうと、家族がいるなかで、小泉さんは泣いた。 「声にあわれがあっていい」といい、うたが始まる前からハンカチを用意していた。(今村武雄著『小泉信三伝』)

 安藤鶴夫さんは、志ん生から、毎年、師走がちかづくと、ことしも、小泉先生にきかせんだな、と思って、それがなんだかまちどおしかった、と聞いている。

 冬の夜に風が吹く
 しらせの半鐘がジャンと鳴りゃ
 これさ女房わらじ出せ
 刺子襦袢に火事頭巾
 四十八組おいおいに
 お掛り衆の下知をうけ
 出て行きゃ女房はそのあとで
 うがい手水にその身を清め
 今宵うちのひとになぁ
 今宵
 うちのひとに怪我のないように
 南無妙法蓮華経 清正公菩薩
 ありゃりゃんりゅうとの掛け声で勇みゆき
 ほんにおまえはままならぬ
 もしもこの子が男の子なら
 おまえの商売させやせぬぞえ
 罪じゃもの

 安藤鶴夫さんが、このあいだ、人形町の末広の前を通りかかったら、日曜の昼席に、志ん生の独演会があって、番外として、小泉信三先生をしのんで、冬の夜の大津絵うたいます、と書いてあった。 こんどは、志ん生がうたいながら、泣く番になった。 と、昭和41(1966)年8・9月号の『三田評論』追悼・小泉信三号「小泉先生と落語」に、書いている。