福沢とモース、江木(高遠)学校講談会で出会う2020/11/19 07:13

 磯野直秀教授の「矢田部良吉宛の福沢書簡とE・S・モース」は、モースについて説明したあと、三者の関係に及ぶ。 矢田部良吉は、『福沢諭吉全集』に名前が出てくるのはわずか一カ所、それも第三者宛の手紙に出てくるだけなので、福沢と矢田部は面識があった程度と思われる。 その手紙は、『福澤諭吉書簡集』第4巻の書簡番号908松村禄次郎宛明治17年11月4日付で、慶應義塾で2年間学びアメリカ留学を希望する松村に、コーネル大学へ行くなら、同大で長男一太郎の良友になることを願い、同大の卒業生には今は東大教授の矢多(田)部良吉その他がいると知らせている。

 福沢とE・S・モースがいつ知りあったかを伝える直接的証拠はないが、その出会いは明治11(1878)年9月21日の江木学校講談会発足式と考えられる。 たとえ両者がそれ以前に出会っていたとしても、緊密の度を深めたのはこの時以来と思われる、と磯野直秀教授は書いている。 当時は講談会(講演会)が大流行したが、江木学校講談会もその一つとして結成された。 会の中心は江木高遠で、彼は福沢と浅からぬ縁がある。 江木は嘉永2年12月22日に福山藩の儒官江木鰐水の四男として生まれ、長じて長崎でフルベッキに師事し、明治3(1870)年華頂宮博経親王に従ってアメリカに留学、のち同地で小幡甚三郎(小幡篤次郎実弟)を最後まで看病した。 明治6年帰国するが、翌年再渡米したのち、10年に東京大学予備門教員となった。

 『福澤諭吉書簡集』に江木高遠の名が出てくる手紙が三通ある。 第1巻書簡番号144島津復生宛明治6年4月15日付、島津は中津藩の上士、旧殿様奥平昌邁に同行してアメリカ留学中の小幡甚三郎の客死を伝え、江木高遠がよく面倒をみてくれたことを伝えている。 第1巻書簡番号168高橋岩路宛明治7年5月16日付、丸善仕立局の高橋に洋服を注文したい江木高遠を紹介している。 江木は明治6年8月にいったん帰国、7年6月に再渡米する直前で、この留学のために福沢から資金の一部を借用している、という。 江木はニューヨークのコロンビア法律学校に学び、9年に帰国した。 第2巻書簡番号439森春吉宛明治13年2月14日付、一太郎、捨次郎の大学予備門試験結果を通知してくれたことの礼を述べ、江木高遠も学校を去っているので、予備門訓導の森が頼りだと書いている。 以上の三通で、福沢が江木高遠と親しかったことがうかがえる。

 江木高遠は、明治10年段階から講談会結成の構想をもっていたらしく、何回か会を開き、明治11(1878)年6月30日にはE・S・モースを招いて、江木自身の通訳で大森貝塚と考古学について話してもらっている。 そして、同年9月21日、江木学校講談会発足式を両国中村楼で開催した。 当日は、外山正一、福沢諭吉、西周、河津祐之、モース、江木高遠などの社員(講師)が講演し、あるいは祝辞を述べた。 社員には他に中村正直、沼間守一、杉享二、菊池大麗、フェノロサ、メンデンホールがおり、客員には小野梓、島地黙雷、大内青巒などがいて、当時の学者・文化人が勢揃いしたといってよい。 発足会には2千人が押しかけて、ついに入場制限したと新聞にあり、以後毎月二度開かれた会にも毎回5~600人が集まったという。