秋吉利雄の親戚関係2020/12/06 07:35

 池澤夏樹さんの小説「また会う日まで」で、徐々に分かってくる秋吉利雄の親戚関係を見ておこう。 九州の地図を見ると、現在、水城(みずき)は太宰府市、二日市は筑紫野市だが、ごく近く、ともに太宰府の一角を占める。

秋吉利雄の父、福岡・水城生まれ、井上岩吉は31歳の時、ハッチンソン師により洗礼を受け熱烈なキリスト教(聖公会)の信者になった。 親は反対で、長男なのに家督を継がせなかったので、妻子を連れて北海道岩見沢で開拓民となったが、苦労の末、九州長崎に戻った。 利雄には、姉ヒデ、兄新(あらた)、妹トヨがいた。 岩吉は後に佐世保で募金に奔走し、最終的には福石町に教会を設立した。 利雄は16歳で、兄の新と共に、牛島惣太郎牧師の按手式を受け信徒となった。 妹のトヨは、父の信仰を最も熱心に受け継ぎ、聖公会系のプール女学校、聖使女学院を経て、伝道師になった。

 利雄が鎮西学院で学んでいた時、遠縁の秋吉から養子の話が来た。 二日市で旅館を営む秋吉徳三郎は、二人の妻と死別、三人目の妻ロク、長女ハル、次女クラがいたが、相続の関係で男子を望んだ。 利雄は、婿養子ではないこと、娘が婿養子を取れば籍を抜く条件で承知し、井上利雄から秋吉利雄になった。

 岩吉の弟、菊次郎は福永家に養子に入り、福永菊次郎だった。 菊次郎は確か関という家の五男、末次郎を養子にした。 末次郎は、利雄の一つ下で、修猷館から一高、東京帝国大学法科大学経済学科に進んだ。

 福岡には叔父の乙吉がおり、乙吉とシゲの子、ミ子(みね)とチヨがいた。 利雄と兄の新、妹トヨは、幼い時から、従弟の末次郎、従妹のミ子(ね)やチヨと、よく遊び、長崎のくんちの晩などみなで町中を走り回った。 利雄が鎮西学院から海軍兵学校への受験前、親の用事で乙吉の家に行き泊まると、久しぶりに会ったチヨが小倉高等女学院の夏休みでいて、すっかり大人びて見えた。受験の事を知らせると、すっと寄ってきて、一瞬だけ唇をあわせた。 運を分けてくれたという。 生まれて初めてなのよ、と言って部屋を出て行った。 試験の自信になって、合格できた。

 利雄の母ナカは、二日市の吉広家の生まれだった。 二日市に二十四名の氏子がつくった二十四名社という八幡神社があり、養父の秋吉徳三郎も、吉広の藤次郎伯父も、その社員だった。

コメント

_ 轟亭 ― 2020/12/09 21:29

12月9日の127回、利雄は16歳の時、長崎の聖三一教会で、エビントン師の司式で信徒按手式を受けて信仰を固め、牛島先生は立ち会われた、とある。

_ 根谷崎武彦 ― 2021/09/18 14:42

聖公会・横浜山手聖公会(横浜教区)信徒一家(2代目、代数で数えると私の孫で4代目になります。私は1940年に三光教会(東京教区)で今井直道師の司式で幼児洗礼を受けました。小説に登場する野瀬司祭は戦後横浜教区の主教となられ、そのころ横浜教区信徒だった我が一家は三光時代に司牧されていた野瀬師の教区主教着任に大変な感慨を持ってお迎えしました。

_ 轟亭 ― 2021/09/19 10:02

昨日の400回に、白金の三光教会が旗の台に移ったとあって、驚きました。私は旗の台に近い中延で生まれ育ちましたので。

_ 青柳みどり ― 2022/01/31 00:23

子供時代旗の台に住んでおり、とても懐しく、三光教会が現在もあるのならば訪ねてみたいという気持ちを抱きました。
当時は親子して旗の台の洗足教会に通っており、「また会う日まで」を読み進むうちに、神様を信じるとは、人生を生き抜くこととはと、秋吉利雄の家族の歩みを通して改めて心に問い掛けられた思いです。

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック