小泉信三さん、宮内庁長官を断り、東宮御教育常時参与に2024/12/25 07:09

 小泉妙さんの『父 小泉信三を語る』(慶應義塾大学出版会)の「戦後の父」の章に、「宮内庁長官に望まれる」がある。 昭和23(1948)年5月1日に、芦田均首相が小泉信三さんの家に来て、宮内庁長官になってほしいと言ったとある。 小泉信三さんは、病体であることと、反マルキストだから(後を読むと、ソ連との交渉に響く懸念)、皇室に迷惑をおかけすることがあるといけない、と断った。 芦田均首相は、「誰が入っても悪く言われるから、構いません。病体では仕方がないけれど、お上が御切望あそばすので、この際元気を出して、出てくれませんか」と言った。 小泉さんは、自分はやるとなったら、いい加減なことはできないから、この病体では駄目だと断った。 芦田首相は、その通りを陛下に申し上げましょう、と帰った。

 小泉さんはそれから、陛下の御切望なのにと、すごく悩んだ。 陛下のお傍で本当に力になったり、お話相手になれる人がいなければいけないのに、自分は卑怯なんじゃないか。 でも長官になれば、行幸のお供ができなければ無理だし、やっぱり無理だということになった。

 当時の宮内庁長官の田島道治(みちじ)氏へお断りに出した手紙には、こういうことを書いた、と小泉妙さんが話している。 日本は何もかもアメリカのもとでやらなければならないから、役人にはなりたくない。 自由に批評ができる立場でいたいと思うし、それだからこそ、出なければ悪いとも思って、複雑な気持だったようだ。

 小川原正道さんの『小泉信三―天皇の師として、自由主義者として』(中公新書)「東宮御教育常時参与として」に、「この間、芦田均首相から宮内府長官を打診され辞退したこともあったらしい」とある。 「この間」とは、以下の話だ。 GHQの指令による公職追放令の結果、追放を免れた小泉は、1946(昭和21)年4月1日に、安倍能成、掛谷宗一(数学者、1886~1947)らとともに東宮御学問参与に任じられた。 皇太子の学問の重要事項について相談などに与る役職だったが、月に一度、皇太子の近況について意見交換する程度だった。 1948(昭和23)年6月に宮内府長官に任命された無教会派のクリスチャンで実業家出身だった田島道治は、小泉を皇太子教育の実質的な責任者となる東宮大夫に就任するよう打診する。 だが小泉はこれを固辞し、結局1949(昭和24)年2月26日に東宮御教育常時参与という皇太子の教育全般を担う役職に就くことになる。 この日、小泉は昭和天皇に拝謁している。 田島道治は、『小泉信三先生追悼録』(新文明社)「小泉君を憶う」に、精魂込めた執拗さで、小泉にこの就任を依頼し、大先輩で小泉の義兄松本烝治や共通の先輩池田成彬の協力も得たとある。

 その「小泉君を憶う」に、小泉信三さんがまさに急逝だったことが書かれていた。 昭和41(1966)年5月11日、午前10時少し過ぎに急逝の知らせを受けたが、耳を疑った。 その前々日午後に小泉君から電話がかかり、ある要件を伝えたあと、その前々日の「小宮豊隆氏の葬式で安倍能成氏夫人に会ったが、安倍はまだ退院しないそうだが、早く元気になって欲しいものだ」とか「自家(うち)でも二女の夫(妙さんの夫、準蔵さん)が病気であったが、漸く危機だけは幸いに脱したようだ」とか周囲の人の健康を心配しながらも御本人自身の元気な声を聞いてから一日半しか経っていなかったからである、とある。