「闇夜の梅」、三遊亭円朝「来し方の秘話」 ― 2026/04/05 07:18
森まゆみさんの『円朝ざんまい』で「闇夜の梅」が、「円朝、来し方の秘話」となっているのは、つぎのようなわけである。 森まゆみさんに『不思議の町・根津』(山手書房新社)という本があり、「谷底の文化人たち」の章に、「三遊亭円朝」という項がある。
円朝は本名を出淵(いずぶち)次郎吉といい、天保10(1839)年湯島切通し、俗にいう根性院横丁に生れた。 いまの岩崎邸のあたりである。 母すみが谷中三崎(さんさき)辺で寺院の手伝いをしていたころ、父長蔵(橘家円太郎)といっしょになり円朝が生れた。 すみには前夫との間に徳太郎という子があり、この人がのち谷中長安寺の住僧となる玄昌である。
円朝は、父に従って早くから高座に上るが、母や兄は芸人になるのに反対し、池之端茅町の寺子屋山口に通わせたり、(この学校が、のちに樋口一葉の通った青海学校である)、池之端仲町の両替問屋「葛西屋」に奉公に出したり、玄冶店の浮世絵師歌川国芳に絵を習わせたりした。 一方、父円太郎は放縦で家にも寄りつかず、一時は兄玄昌のはからいで、円朝は母と谷中長安寺の門番小屋に暮らしたりしたが、やはり持って生れた血というか高座を忘れかね、寺男をしながら修業に打ち込んだ。
安政2(1855)年17歳の時、浅草森下金龍寺の初代円生の墓前で衰退した三遊派の再興を誓って円朝を襲名し、独立した。 二人の内弟子をとったのが根津七軒町の裏店の桶屋で、弟子より早くおきて手拭かむりで炊事する円朝を、近所の人たちは女房と思っていたとか。
真打となり、安政の大地震で命は助かった円朝は、池之端の今度は表店に父母を住まわせ、浅草の高座に通う。 円朝は孝行者で父母の面倒を見、師二代目円生が亡くなると墓を立て、遺児二人を養育している。 が、芸風はこのころ派手で、役者の声色や鳴物を用い、赤い襦袢の袖などひらつかせて女性ファンをキャアキャアいわせたと岡本綺堂が書いている。
円朝がいわゆる芝居噺をやめ、扇子一本の素噺に戻ったのは明治になってから五年目である。 とくに明治九年、高橋泥舟や山岡鉄舟の生き方に影響を受け、家庭的な心労(母の死、妻との不仲、息子朝太郎の非行)も重なる中で開眼し、芸を磨いていった。
「闇夜の梅」は、幼いころの母子の苦労とやさしい兄の思い出の物語ともいえる。 三崎坂を上ったところに、兄玄昌のいた谷中長安寺がある。 玄昌は永泉と名を改め、小石川極楽水是照院で住職となった。 森さんは、円朝作品に詳しい柳家小満ん師匠に、円朝の羽織の紋が高崎扇なのは、兄玄昌の寺、是照院の紋所だからではないかと、教わったそうだ。 この寺は上州高崎藩主大河内家の菩提寺で、高崎扇は大河内家の紋所なのである。 紋付の羽織は噺家の必需品だが、別に家紋でなくてもよく、円朝の兄を慕う心が紋に現れたのではないか、と。
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