天下取りへと走る秀吉、そして秀長 ― 2026/02/16 07:23
『英雄たちの選択』スペシャル「秀吉と秀長―激突! 豊臣チルドレンの関ヶ原」のつづき。
天正10(1582)年6月2日、明智光秀が「本能寺の変」で信長を討つ。 秀吉は、備中高松城攻めの最中に、この急報を聞き、毛利方に悟られないように講和を急いでまとめる。 6月4日、高松城主の清水宗治が切腹すると、秀吉は6日午後に高松を出発し、わずか一昼夜で約80キロの行程を走破し7日居城の姫路城に到着した。 この「中国大返し」で、13日山崎の戦い、27日清須会議となる。
柴田勝家と対立し、天正11年琵琶湖の北で両軍が対峙する賤ケ岳の戦いとなる。 織田信孝と滝川一益が勝家に呼応して岐阜城で挙兵したため、秀吉が急遽岐阜へ迎撃に向かったので、勝家は勝機と見て甥の佐久間盛政に攻撃を命じ、本格的戦闘が始まる。 現地で指揮をとった秀長が、柴田軍を防ぐ。 秀吉も「美濃大返し」で戻り、賤ケ岳の七本槍といわれる加藤清正、藤堂高虎、福島正則ら「豊臣チルドレン」が活躍し、圧倒的勝利をおさめ、退却して北庄(きたのしょう)城に籠もった勝家は妻の市とともに自害して果てた。
秀吉は、大坂城を築く。 和歌山城に秀長を送り込んだのは、抵抗勢力で鉄砲を駆使する雑賀衆を治めるためだった。 和歌山城には、豊臣家の石垣がある、南東の岡口門(元の大手門)。 秀長は、村々から武器を回収する「刀狩り」や「検地」を行い、全国統治の仕組みを試している。
秀吉、あとは、関東、東北を平定すれば、全国統一へと向かえる。 総大将格を多くつくり、城は守るだけでなく、攻めるものをつくった。 バラエティー豊かな家臣団を育てた。
番組では、秀吉の下に、母衣衆、部将、一門衆がある図を掲げた。 部将には、尾張衆(蜂須賀小六、山内一豊、堀尾吉晴)・親戚筋(加藤清正、福島正則)、美濃衆(竹中半兵衛、仙石秀久)、近江衆(石田三成、藤堂高虎、大谷吉継)、播磨衆。 一門衆には、羽柴秀長、浅野長政(秀吉の妻、ねね(寧々)の義理の兄弟)、羽柴秀勝、羽柴秀次。
秀長を異父弟とし、出世の仕方も違う説 ― 2026/02/15 07:23
『英雄たちの選択』スペシャル「秀吉と秀長―激突! 豊臣チルドレンの関ヶ原」(12月31日放送)を見た。 平山優さん(健康科学大学特任教授・日本中世史、近世史)も冒頭で、「天正19(1591)年秀長の死をきっかけに豊臣政権の凋落が始まった」と話した。
この番組では、豊臣秀吉の弟、小一郎・豊臣秀長を、大河ドラマ『豊臣兄弟!』の同父弟と違って、異父弟と、紹介した。 藤吉郎・秀吉は、木下弥右衛門と大政所(名はなか(仲)とも、不詳とも)の子だが、秀長はその3年後の竹阿弥と大政所の子という説だった。 竹阿弥は、同朋衆(和歌や能楽を扱う)。 木下弥右衛門も、竹阿弥も、貧しく畑を耕していた。
藤吉郎は、18歳で織田信長に仕え、小者から足軽になった。 小一郎は、『信長公記』に直臣、赤武羅之衆(あかほろしゅう・赤母衣衆)の一員とあり、使番(つかいばん、命令を伝達するエリート)。 天正2(1574)年、長島一向一揆攻めで、武功を上げ、信長から長の一字を与えられ長秀(のちに(天正12(1584)年)秀長と改める)となる。 バランスの取れた知的な人物。
番組では、信長の下に、吏僚、旗本、部将、家老、連枝衆があり、旗本の中に、六人衆、小姓、馬廻衆がある図を出した。 秀吉は、部将。 秀長は、馬廻衆。
秀吉は、元亀元(1570)年の織田信長・徳川家康連合軍と浅井長政・朝倉義景連合軍との姉川の戦いや、天正元(1573)年の近江の浅井氏攻めでは指揮官として軍功をあげ、浅井氏旧領の北近江三郡を任され、12万石に見合う長浜城で、城持ち大名となり、家臣を集める。 小一郎がこの戦に参陣していたと、手紙にある。
秀吉は、天正6(1578)年から信長の命令で播磨但馬侵攻を開始するが、秀長は但馬への総大将となる。 播磨と但馬の境界付近の生野銀山(現、兵庫県朝来市)を押さえたのは、経済に詳しい近江衆のすすめだという。 竹田城(兵庫県朝来市)を攻め、秀長は城代となり、一城の主となる。 秀長は、秀吉と同じ苗字を名乗り、羽柴一門衆、秀吉を支える血縁的一族となる。 天正8(1580)年、二人の協力で播磨但馬を平定、秀吉は20年で50万石以上の大名となった。
秀吉と秀長には、性格のすみ分けがあった。 性格が、真反対だった。 秀吉は、大言壮語し、物言いがはっきりしていた。 秀長は、そんなにしゃべらず、柔軟で、もやっとした性格。 秀吉にとって秀長は、信用できる兄弟だった。 秀長は、秀吉と臣下の間にあって、調整役を果たした。
大河ドラマ『豊臣兄弟!』、弟の小一郎・豊臣秀長 ― 2026/02/14 07:30
大河ドラマ『豊臣兄弟!』、八津弘幸作、弟の小一郎・豊臣秀長(仲野太賀)を主役にしたところが新機軸で、巧い切り口を見つけた感じがする。 第一回の題は、藤吉郎・豊臣秀吉(池松壮亮(そうすけ))と、「二匹の猿」だった。 豊臣秀長については、ほとんど何も知らなかった。 雑誌『サライ』2月号は、大特集が「謎解き「豊臣秀吉」」だったが、秀長については、ほんの少ししか書いていない。
謎2、〝攻城の天才〟はなぜいくつもの超軍略を使えたのか→「時代別に活躍した3人の参謀が秀吉の強さを支えました」で、竹中半兵衛、黒田官兵衛と並べて、豊臣秀長(1540~91)を挙げている。 「豊臣軍の総大将を担った絶対的信頼の弟」として、「通称は小一郎。秀吉の異父弟ともされるが同父弟が有力。秀吉が中国攻めの司令官として播磨攻略を進めていた天正6年(1578)頃より確かな史料に名前が表れる。秀吉の中国攻め以降は、秀吉のほとんどの合戦に参加し、四国攻めでは総大将を担う。大和郡山城主で100万石を領し、大和大納言と称される。豊臣政権の重鎮として存在を示したが、秀吉に先立って52歳で病死した。」
秀長は、秀吉の絶対的信頼のもと、四国攻めの総大将など、まさに秀吉の分身としての役割をはたしていく。 小和田哲男さん(静岡大学名誉教授)は、「天下統一の総仕上げである小田原攻めも、病気にさえならなければ秀長は総大将クラスで出陣したでしょう。その翌年に秀長は逝去しますが、豊臣政権にとって重大な痛手でした」と。
ドラマや小説などでは、秀長は秀吉の朝鮮出兵に反対し、豊臣家の行く末を案じながら亡くなっていったように描かれることがある。 本当だろうか。 小和田哲男さんは、「その逸話は研究者の間で疑問符がつけられている『武功夜話』という史料にのみ記されているため、あまり信憑性のある話とは捉えられていません。しかし私は、秀長が朝鮮出兵に反対したというのはありえると思っています。なぜかというと、秀長が亡くなると秀吉はすぐに朝鮮への前線基地となる名護屋城の築城を命じているのです。豊臣家の実力者の秀長が朝鮮出兵に反対したら、秀吉も築城を強行できなかったでしょう」と。
実際、秀吉の朝鮮侵略は失敗し、豊臣政権は揺らいでいく。
「智を研き徳を修めて人間高尚の地位に昇る」 ― 2026/02/04 07:10
1. 智徳の弁 : バックル文明史の応用のみか? 福沢が成稿に苦しんだ章
mental progress : 徳moralと智intellectual→「文明」にとって本質的(バックル)
「モラル」 : 「心の行儀」①「私徳」=貞実、潔白、謙遜、律儀 ;「心の内に属す」
②「公徳」=廉恥、公平、正中、勇猛 ;「人間の交際上に」
←ミルの「私徳」(self-regarding virtues)と「公徳」(social regarding virtues)
◎バックルにない区分を福沢が『大学』・『中庸』などを援用してミルを参照に明確化。
「インテレクト」 : 「事物を考え、事物を解し、事物を合点する働き」
① 「私智」=物の理を窮めて、応用する働き
② 「公智」=人事の軽重大小の分別 ; 重大を先に軽小を後にし時と場を察する働き
←ミルの‘regarding’を「智」にも応用
cf. 「私智」 : 公正でない智慧、狭い考え(『韓非子』)
「心を尽くすは私智崩さず」(朱子)
「公智」 : 世間で知られている周知の意
◎「野蛮の太平」から「文明の太平へ」: 「私智私徳」を推し広めて「公智公徳」に
←「聡明叡智」(外界の事物の認識+内面的思慮深さ): 『中庸』の「天下の至聖」「大徳」
→「公智」 : ワットの蒸気機関、スミスの経済学 : 智恵が世界の面目を一変
→智徳兼備 : クラクソン(奴隷売買の悪法の廃止)、ハワード(囚人虐待の改善)
智を道具として徳を拡大
日本 : 「徳義」は「一人の私徳」で「内に存する」→「パッシーウ」(受け身)
一般論 : キリスト教道徳における受動的服従の教説、積極的よりも消極的
道徳学者や人間の一般的同感←ミル
徳義 : 情愛であって規則ではない
智恵 : 規則 ; 事物の順序を整理する目的←人の誤り
人の悪を防ぐ目的←人の悪心
「智徳事業の棚卸」「経済の公論に酔いて仁恵の私徳を忘るるなかれ」(すゝめ)
←誤りを正すことができるのは智的存在としての人間の尊厳(ミル)
cf. 徳の両義性 : moralとvirtue : ミルも福沢も両者の意味合いの相異を理解。
安西敏三さんは「結び」智徳兼備への絶えざる研鑽 : 文明の要 : 「智を研き徳を修めて人間高尚の地位に昇る」として、ミル『功利論』への福沢の書き込みを挙げた。
「ノーブルフヒーリングは若き草木の如し 社会中に交わる己が地位の有様に由て容易に消滅す可し 今の少年が妻を娶り官員に為りて後に気力を失ふが如し されども中心に勘弁して(考えて物を決める)賤しき快楽を悦て尚高の気風を投棄せんと欲する物はある可からず 必ず心の内には一点の廉恥存するものあり 旧友が折々尋問に来り或は近辺に居を移さんとする抔 再ひ近かんとするが如きは即ちノーブルフヒーリングの未だ全く枯死せさる者なり 蓋し人に交るの要は此のフヒーリングを勉めて養成すに在り」
(社交の必要性、「人を毛嫌いするなかれ」。人間はあらゆる分野でレベルアップしなければならない。)
(この部分は、伊藤公平塾長の年頭挨拶にも出て来たので、1月15日の当日記に一部を引き、「当時の日本は、外国交際病、貿易の搾取、外国人は利益を求めて、理屈を出してくる。 一人、一人の能力を高める必要がある、昨今の国際情勢、利と理を考えないと、弱肉強食の世界になってしまう、現在進行形の問題である。」と書いた。)
新たな習慣を創始して賢明なる行為を ― 2026/02/03 07:04
1. 衆論と習慣
「国内衆人の議論」: 「その時代にありて普(あまね)く人民の間に分賦せる智徳の有様」→「習慣」によって「体裁」→「停滞不流の有様」→幕府 : 「因循姑息」。
「智力」が権を得る習慣 : 「彼の報国心の粗なる者をして密ならしめ、未熟なる者をして熟せしめ、以て我国体を保護することあらば、無量の幸福」(「国を思ふ心」)<「天稟の愛国心」> から「国を思ふ理」<「推考の愛国心」> へ(←トクヴィル、ミル)
西洋諸国の衆論 : 国人各個の才知より高尚にして人物に不似合いな説と行動。
東洋諸国の衆論 : 知恵に不似合いな愚説を吐きて不似合いなる拙を尽くす。
「習慣の相異」←「衆議の法」 : 「数十百年の古より世々の習慣によりてその俗を成し…今日に至ては知らずして事を成す可し。」
「習慣の久しきに至れば第二の天然と為り、識らず知らずして事を成す可し。」
←“Habit is second nature” : 「習慣」は人為であるがため変革可能、「天然」は自然←ミル「習慣の圧制」(the despotism of custom) : 東洋の特徴。 「堅実な習慣」(the steady habit) : 誤りの是正と確実性。
「日本人が無議の習慣に制せられて、安んずべからざるの穏便に安んじ、開くべきの口を開かず、発すべきの議論を発せざるに驚くのみ。」「利を争うことは古人の禁句なれども、利を争うは即ち理を争うことなり。」
「一国の人民として地方の利害を論ずるの気象なく、一人の人として独一個の栄辱を重んずるの勇力あらざれば、何事も論ずるも無益なるのみ。」(自尊心、独立自尊の契機) : 自然ではなく習慣。「習慣に依りて失うたるものなれば、これを快復するの法もまた習慣に由らざれば叶うべからず。習慣を変ずること大切なりと云ふ可し。」
←ミルのindividuality論 : 新たな習慣を創始して賢明なる行為を。
(つづく)
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