福沢索引2005年12月のブログ[昔、書いた福沢223]2020/02/23 07:51

不同意の自由、不人気な見解に対する寛容<小人閑居日記 2005.12.5.>
 少数意見の尊重という問題。 文明はどれも、異端妄説、多事争論から生れ
る、と言った福沢諭吉の『文明論之概略』を引くまでもないだろう。 以前か
ら党議拘束というものに疑問を感じていた。 議員個人の信念にもとづく投票
行動は尊重されなければならないと思う。 ジョン・F・ケネディの『勇気あ
る人々』を思い出した。

『勇気ある人々』<小人閑居日記 2005.12.6.>
 ジョン・F・ケネディ著『勇気ある人々』の読書メモから。 ジョン・クイ
ンシー・アダムズ(1767-1848)。  19世紀前半、南北の衝突を地域的な利害を
越えて何とか避けようとした人々…デニエル・ウェブスター(1782-1852)、トマ
ス・ハート・ベントン(1782-1858)、サミュエル・ヒューストン(1793-1863)。 
19世紀後半、経済問題…エドマンド・G・ロス(1826-1907)、ルシアス・クィ
ンタス・シンシナタス・ラマー(1825-1893)。 19~20世紀をはさみ、国際的
問題…ジョージ・ノリス(1861-1944)、ロバート・A・タフト(1889-1953)。

アメリカ史の年表<小人閑居日記 2005.12.7.>
 『勇気ある人々』を読むのに作ったアメリカ合衆国の歴史の年表。

福沢索引2005年9月・10月18日迄のブログ[昔、書いた福沢220]2020/02/20 07:02

太陽活動と地球温暖化<小人閑居日記 2005.9.26.>
 福澤諭吉協会の第96回土曜セミナー、桜井邦朋さんの「虹と太陽―諭吉が
みた自然」。 前神奈川大学学長で、京大の理学部を出て同学部助教授、地球物
理学専攻で、太陽物理を研究、NASAの主任研究員、メリーランド大学の教授
などを務め、2005年春、『福沢諭吉の「科學のススメ」―日本で最初の科学入
門書「訓蒙 窮理図解」を読む―』(祥伝社)を出版。 理科系の科学者の立場
から、二酸化炭素排出量の増加を地球温暖化に結びつけることを、留保した。 
気温の変化は、太陽の活動と密接な関係があり、太陽こそ本命。
「科学する心」理数系に弱い日本人<小人閑居日記 2005.9.27.>
 福沢は『時事新報』の社説(明治15(1882)年3月22日)にもなった演説
「物理学之要用」で、自然科学、理数系の学問を推進しなければと力説。 物
理学の成果が、現代文明を支えている。 福沢が『訓蒙 窮理図解』で、科学、
特に物理学について学び理解することが、どれほど大事かを説いたこと、福沢
が憂慮した日本人の論理軽視の思考傾向は、今日の課題でもある。

広尾の祥雲寺墓地<小人閑居日記 2005.10.9.>
 『福澤手帖』126号、服部禮次郎理事長の「福澤門下生の墓所を巡る(一)」。 
小幡篤次郎、浜野定四郎、草郷清四郎、福沢の高弟三人の墓が広尾の祥雲寺に
ある。 私は結婚してからの6年間、そこに住んだ、「広尾短信」創刊の地。

書の作品を読むコツ<小人閑居日記 2005.10.16.>
 書の作品が読めない[昔、書いた福沢202]<小人閑居日記 2020.1.25.>
を書いたが、雑誌『サライ』9月1日号の特集「掛け軸の見方」。 「「変体が
な」を覚えれば、和歌は判読できる」、頻出「変体がな」一覧」表。

交詢社のはなし<小人閑居日記 2005.10.18.>
 入学以来45年の歳月が経った大学のクラス会を銀座の交詢社でやったので、
思いついて「交詢社」に関するメモを作って配った。 交詢社は「知識を交換
し、世務を諮詢(しじゅん)する」をスローガンに福沢諭吉の主唱により、明
治13(1880)年1月25日に設立された日本最古の社交機関。 明治14年4
月『交詢雑誌』第45号に「私擬憲法案」を発表。 昭和4(1929)年に建っ
た7階建のビルディングの、主要部分を復元保存した現在の建物は2004年10
月落成。

福沢索引2005年7・8月のブログ[昔、書いた福沢219]2020/02/19 07:02

日吉のカマボコ校舎<小人閑居日記 2005.7.1.>
 終戦早々にアメリカ軍に接収された日吉キャンパス、返還まで4年かかる。
1961(昭和36)年、大学2年生、カマボコ校舎で英語の授業を受けた。

朝顔市と三田演説館の講演会<小人閑居日記 2005.7.7.>
 井上琢智(たくよし)関西学院大学経済学部教授の「明六社・日本学士院と
共存同衆・交詢社―福沢諭吉・小幡篤次郎・馬場辰猪―」。
馬場辰猪と「共存同衆」「交詢社」<小人閑居日記 2005.7.8.>
 馬場辰猪は、「共存同衆」や「交詢社」などの「結社」を近代社会形成の一ス
テップ(手がかり)として位置づけ、日本近代社会形成の核にしようとした。 
ミクロな「結社」の構成・運営原理を、マクロな国家という大きな「社会」に
拡大し適用しようと考えていたという。
福沢・小幡・馬場、それぞれの社会構想<小人閑居日記 2005.7.9.>
 福沢は性急な自由民権運動と一線を画していた。 小幡篤次郎は福沢を受動
的に補佐していただけでなく、独自の社会構想を持っていた(2005.5.17.「健
全にして且楽しき新家庭」)。 馬場辰猪は、集団行動への絶望から「結社」を
通じての「近代社会」の形成を断念し、「個人」行動の重要性を認識し、「個人」
行動へと走り出す。

田口卯吉の経済政策思想<小人閑居日記 2005.7.18.>
 福澤研究センターのセミナー、中村宗悦(むねよし)大東文化大学経済学部
教授の「福澤諭吉の経済政策思想―田口卯吉との比較を通じて―」。 金本位制
に移行すべきかどうかを検討した貨幣制度調査会(1893-1895、明治26-28)、
田口の逆転賛成で金本位制を先送り。
西川俊作先生のコメント<小人閑居日記 2005.7.19.>
 田口卯吉は原理主義者(自由主義経済学者)だが、福沢は原理に忠実ではな
い。 状況に応じて、柔軟に意見が変えられる。 西川俊作先生は今、「無署名
論説認定」問題に関連して、日清戦争が始まった明治27(1894)年の『時事
新報』を全部、読んでいる。

『信州福沢考』の茅野市豊平<小人閑居日記 2005.8.8.>
 麻布善福寺境内、福沢のお墓に「福沢氏記念之碑」、福沢の文章で「福沢氏の
先祖は信州福沢(地名)の人なり」とある。 富田正文先生の『信州福沢考』
(私家版)によると、信州に福沢という地名は11か所ほどあり、その一つが、
以前は諏訪郡豊平村福沢、現在の茅野市豊平で特筆されるけれど、決め付ける
のは無理。 信州から中津へ、どう行ったか、富田正文先生の推測。
丸山信著『信州と福沢諭吉』<小人閑居日記 2005.8.13.>
 『信州と福沢諭吉』(2005.4.18.東京図書出版会発行)、あまり感心しなかっ
た。 話が一貫せず、突然あちこちに飛ぶ。 どうも論理がつながらない。 根
拠がはっきりしないところがある。

小室正紀さんの「江戸の思想と福澤諭吉」[昔、書いた福沢214]2020/02/14 06:58

       江戸時代の儒学をまるめる<小人閑居日記 2005.3.9.>

 1月10日風邪で行けなかった第170回福沢先生誕生記念会での小室正紀(ま さみち)福沢研究センター所長の講演「江戸の思想と福澤諭吉」が『三田評論』 3月号に出ている。 ありがたい。 これは聴くより、読んだ方が、分かり易 いかもしれない、と思った。

 江戸時代の儒学を、三つに絞って説明している。 1.朱子学 2.伊藤仁斎・ 東涯の学派 3.荻生徂徠の学派だ。 1.「忠孝悌信」忠義、親孝行、兄弟愛、 隣人愛に則った生き方をし、無私の心になること。 特に上に立つ者がそれを 率先して実践すると、下が自然に感化され、社会全体が道徳的社会が実現する。  これが明、清、李氏朝鮮で正統な国の教えとなった儒学、官吏登用試験「科挙」 での対象教養。 2.孔子の言行を記録した『論語』を精密に分析して、その本 質をこう考える。 人間は生まれつき、いいものはいいし、悪いものは悪いと 思う感情、人情がある。 だから社会のそれぞれの成員が、その自分の人情に 従って、それぞれの場で誠心誠意生きていくことで、実は「道」は実現される のだ。 平等主義的。 3.孔子が理想として語っている孔子以前の古代中国社 会を調べる必要があると、『五経』という書物を客観的に分析する。 経験的、 客観的にものごとを認識しようという態度、考え方。

 幕末には全国で260ぐらいの藩があったが、明治維新の段階で藩校を持って いた藩が215だった。 その215の藩校のうち、1750年以降、つまり江戸時 代の半ば以降にできたものが187校で、87パーセントを占めている。 江戸時 代の後半になって、儒学が広く武士層に学ばれ、知識人にも普及していった。  一般に普及するとともに、それぞれの学問が実態に合わないという感想が出て きて、朱子学だけではだめだ、仁斎学だけでも、徂徠学だけでもだめだ、それ らのよい部分を集めて折衷し、実態に合わせた思想をつくっていこうというの が折衷学である。

 専門家の、こういう大づかみの、噛みくだいた説明は、勉強になる。

      異端妄説、多事争論の大切さ<小人閑居日記 2005.3.10.>

 小室正紀さんの講演「江戸の思想と福澤諭吉」のつづき。 江戸時代後半の 折衷学の時代というのは、ばらした思想の部品をどのように体系化すればいい のかという、模索の時代だった。 ものを考えるいろいろな部品は用意されて いた。 福沢は儒学から蘭学、さらに英学に転ずるなかで、自分たちが模索し 求めていたものが何かということが、おそらく目から鱗が落ちるようによくわ かったのだろう。 西洋文明の思想を考える個々の部品は、すでに自前で揃っ ており、その部品をいかに体系化していくかということが、実は福沢の仕事だ ったかもしれない、福沢は明治のはじめに、近代文明の本質と日本の現状を的 確に把握し、それに指針を与えた、と小室さんは言う。

 この時代に、日本ではそんな福沢のような人物が出たのに、なぜ清国や朝鮮 では出なかったのか。 日本では儒学だけでなく、国学や蘭学その他、各藩も 沢山の私塾も、それぞれの考えで勝手にさまざまな学問の教育、研究をやった。  つまり文教が統一されていなかった。 実はこれこそが、日本から福沢のよう な人物が出てきた理由ではないか。 福沢は『文明論之概略』で「文明という ものは、どれもはじめは異端妄説から生れる」「文明というものは、多事争論か ら生れる」と言っている。 清国や朝鮮では、官吏登用試験「科挙」の試験科 目がほぼ朱子学に統一されていて、それが知識人の世界を基本的には朱子学一 辺倒にしてしまい、「多事争論」が生れなかった。

 結びで小室さんは言う。 現代は高度な情報化社会である。 うまくすれば 多様な情報が行き交う社会になる。 しかし下手をすると、一つの考え方に、 一気にまとまっていってしまう恐れもある。 研究機関、教育機関はよほど注 意しなければならない。 とくに慶應義塾は「多事争論」の価値を唱えた福沢 のつくった学塾だから、なおさら。

楠木正成と福沢の「楠公権助論」[昔、書いた福沢212]2020/02/12 07:11

         楠木正成と民衆<小人閑居日記 2005.2.28.>

 23日放送の“その時、歴史が動いた”は「我が運命は民と共に 悲劇の英雄 楠木正成の実像」だった。 正成は河内の一土豪だった。 商業、輸送の利権 を握っていたらしい。 後醍醐天皇が倒幕の挙兵をし笠置山にこもったのに呼 応して、河内赤坂城で挙兵した。 その500の兵に対し、北条高時は数万で討 伐に向かった。 正成は地侍らしいゲリラ戦で応じ、石を投げ、岩や丸太を落 として、幕府軍に甚大な被害を与えた。 この時も、後年の金剛山千早城でも、 兵糧攻めにあっているが、城外と連絡する山伏や修験者(正成が山伏かもしれ ないという)の間道を使ったネットワークがあったらしい。 

 元寇の後、恩賞がなかったことで、武士の忠誠心が崩れた。 民衆の権力へ の不信も高まった。 民衆の中で識字率が高まり、反体制のネットワークは広 がった。 正成の活躍の情報が伝わり、各地の土豪が幕府の出先を襲った。 足 利高氏、新田義貞も立ち上がった。 民衆の力が、鎌倉幕府を倒した。

 土豪、商業、輸送の利権、投石、地侍、山伏や修験者、どれもが網野善彦さ んの所論を思い出させる。

       「悪党」、新興地主たち<小人閑居日記 2005.3.1.>

 思いついて司馬遼太郎さんの『街道をゆく 人名・地名録』で「後醍醐天皇」 と「楠木正成」を見た。 「後醍醐天皇」(1288-1339)に、簡潔で気持よい要 約があった。 「鎌倉幕府が頼朝の死後、急速に弱体化するのは、関東を主とした「開墾農場 主」(鎌倉の御家人)の利益団体でありすぎたということであろう。かれらを鎌 倉体制の守護・地頭という栄爵にのぼらせ、全国を支配したが、かれらよりも 遅れて山野を開墾し小地主化した連中をすくいあげず、むしろこれを「悪党」 として差別し、その利益の保護をしてやろうとしなかったところにある。頼朝 の死後、北条氏が執権するがやがて右の全国的な不満をおさえかねるようにな る。その潜在的動乱につけ入ったのが、後醍醐天皇を中心とする武家以前の古 い律令勢力であったというのは、歴史がときに見せる奇妙な力学現象である。 かれらは尊王、正閏(せいじゅん)論、攘夷という政治論をふくむ宋学という、 およそ日本的実情にあわないイデオロギーを正義とし、公家権力の一挙回復を はかってクーデターを試みようとし、事前に北条方に発覚して、京都から逃げ る。外来のイデオロギーで武装したこの古代的勢力は、もっともあたらしい悪 党――新興地主たち(河内の楠木正成がその代表であろう)と結び、鎌倉とい う、成立早々に古くなってしまった武家体制とあらそう。それが、元弘ノ変 (1331年)とよばれる事変だったといってよい。京から逃げた後醍醐天皇は奈 良に逃げ、笠置山にこもったが、やがて北条方のために捕えられ、隠岐に流さ れた。すでに土地に関する不満が充満していた時代だったために、この事変が 起爆剤になって津々浦々が動乱状態になり、新興勢力は宮方(後醍醐方)に結 び、旧勢力は鎌倉の命をうけ、以後、室町期の南北朝の対立までつづき、なお 安定せず、戦国期に入り、はるかなのち、秀吉の統一と太閤検地でもって、そ ういう形での落着をとげるのである。」

     楠木正成、水戸史観、「楠公権助論」<小人閑居日記 2005.3.2.>

 『街道をゆく 人名・地名録』の「楠木正成」(?-1336)で、正成に鎌倉末 期の正規武士たちの水準からいえばまるで別種の人といっていいほど教養があ ったのには奇異な思いがするが、その教養の基礎は少年のころ観心寺に通うこ とによって培われたというのが通説だ、とある。

司馬遼太郎さんは言う、「王を尊び覇を賤(いやし)むという宋学という多分 に形而上学的な学問を身につけてそのイデオロギーに殉じたという意味では、 日本史上最初のイデオロギストであったかもしれない。かれのイデオロギーは かれの敵であった室町幕府においては悪思想であったが、ずっと降って徳川初 期に水戸光圀(みつくに)が主導した水戸史観によって強烈な正義の座にすえ られ、幕末、幕府を倒そうとする志士たちにとってたとえばマルクスのような 存在になり、ときには日本における革命の神というべき戦慄的な名前になった。   維新後、国史教育は水戸史観を継承したから正成は日本史上最大の神聖英雄 の座についたが、しかしその寿命は八十年で尽き、太平洋戦争の終了とともに、 かれを賞揚した宋学的な観念論史観は戦犯的なものとして追いやられ、それと 同時に正成の名は教科書から消えた。あるいは消えたも同然になった。」

 ここで私が思い出したのは、福沢諭吉の『学問のすゝめ』第七編が「楠公権 助論」だとして、轟々たる非難を浴びたことである。 福沢は日本古来の忠臣 義士と称するものは、その死はいかにもはなばなしいけれど、単に封建的な主 従関係に殉じただけで、必ずしも正義人道のためでもなければ、世の文明に益 するものでもなかった。 ただ一人、佐倉宗五郎を例外として、ほかはいずれ も主人の使いに行って一両の金を落とし、申し訳に首をくくった権助と同断の 犬死を遂げたに過ぎない、と書いたからだった。