福沢索引2006年1月のブログ・平山洋さんの講演[昔、書いた福沢225]2020/02/25 07:05

平山洋さんの講演を聴く<小人閑居日記 2006.1.20.>
 「夕学(せきがく)五十講」、慶應丸の内シティキャンパス定例講演会、平
山洋(よう)さんの「真実の福澤諭吉を求めて」。 雑誌『表現者』平成17年
11月号の平山さんのインタビユー記事「アジアにこそ「脱亜論」を」(聞き手、
東谷暁氏)の内容に即して、(1)「脱亜論」の舞台裏 (2)福澤像を歪めた「怨
望」 (3)福澤は左翼の敵か (4)それぞれの思惑による福澤評価。 講演の力
点は、福沢像をねじまげた犯人だと平山さんが名指しした石河幹明問題より、
左翼陣営が福沢批判をするために「脱亜論」を探し出し、平山さんが石河がも
ぐりこませたとするいくつかの論説も加えて、福沢を「侵略的絶対主義者」と
して批判してきたことにあった。 福沢の署名論説や書簡には、領土拡大を言
っているものはないし、アジア蔑視表現はない。 石河幹明が、『福澤諭吉伝』
を書くにあたって、前年に満州事変が起こった時局に適合し、自分の意見にも
合う「国家膨張主義者」としての福沢像を描くのに都合のよいように、大正版、
昭和版『福澤諭吉全集』に自筆の時事新報論説をもぐりこませたり、福沢や他
の記者(高橋義雄、北川礼弼)の論説を取捨選択したと、平山さんは主張する。

マルティン・ルターの気分<小人閑居日記 2006.1.21.>
 2004年8月刊行の『福沢諭吉の真実』で平山洋さんが提起された問題に関連
して、私は「創立150年への宿題」<等々力短信 第946号 2004.12.25.>
に、「新年からは、2008年の慶應義塾創立150年に向けて、井田進也さんの方
法をとっかかりにして、「時事新報論集」についての議論を活発にするとともに、
ぜひとも『福澤諭吉全集』のCD-ROM化を実現してもらいたいと思う」と書
いた。 この問題でも福沢のいう「多事争論」が求められていると思ったから
である。 しかし、慶應義塾や福沢研究関係者の間での『福沢諭吉の真実』の
扱いは冷たいようで、一向に論議が巻き起こらないまま、それからも一年が経
過した。 『表現者』11月号で「まず慶応主流のほうとしては、私の説には触
れたくない。」「もう一方の福沢否定派も、当然私の言っていることは認めたく
ない。こちらは要するに福沢を侵略主義者にしておきたい人たちですね。」と、
語っている。 18日の講演のレジメの最後にも「私はほとんどマルティン・ル
ターの気分です」と、あった。

靖国神社について<小人閑居日記 2006.1.22.>
 平山洋さんの講演後の質問で、福沢の靖国神社についての意見を訊いた人が
いた。 明治期以降の日本思想史がご専門の平山さんは、靖国神社問題にも興
味を持っているとして、若干の意見を述べた。 福沢については、井伊直弼を
暗殺した犯人が合祀されているのはヘンな気がすると、書いている福沢の1890
年の意見によって、「靖国神社万歳論者」というのはウソだと言った。 それは
日清戦争前だし、日露戦争も今次大戦も福沢の死後のことなのだから、現在の
問題を扱うことはできない、と平山さんは述べた。 ブログには、その後、「大
村益次郎と靖国神社<等々力短信 第891号 2000(平成12).10.5.>」を引い
た。

「柳田格之進」の娘<等々力短信 第1128号 2020(令和2).2.25.>2020/02/25 07:07

 等々力短信45年になった。 創刊は1975(昭和50)年2月25日、1995(平 成7)年3月25日に「700号、20年記念の会」を浅草ちんやで開いて頂いた。  その折、余興に一席演ってもらったのが、真打になる前の三遊亭歌武蔵である。  あれから25年、先月21日、国立小劇場の第619回「TBS落語研究会」で、 トリを務めたのが三遊亭歌武蔵、演目は「柳田格之進」、人情噺の大ネタをたっ ぷりと聴かせたのだった。

 江州彦根藩士柳田格之進、清廉潔白を煙たがられ、上役の讒言でお役御免と なり、江戸浅草阿部川町の裏長屋住まい。 娘お絹の勧めで材木町の碁会所へ 出かけ、浅草馬道の大きな質屋、萬屋源兵衛と仲良くなり、萬屋の離れで碁を 打つようになる。 八月十五夜、月見の宴に招かれ、碁を打ったが、柳田の帰 った後、五十両が無くなる。 番頭の徳兵衛は、浪々の柳田を疑い、そんなお 人ではないと主人の止めるのも聞かず、翌朝阿部川町へ。 お上に届けると聞 き、柳田はその場にいたのは拙者の不運、五十両を出そうと。 娘のお絹は、 腹をお召しになるのは無駄と言い、親子の縁を切ってもらい、吉原に身を沈ま せて、五十両を作る。 盗らぬものなら、かならず他から出ます、萬屋の両名 をお斬りになって、武士道をお立て下さいますよう。 翌日、番頭は喜んで五 十両を受け取り、万一金が出たら主人と二人の首を差し出すと約束する。 怒 った萬屋源兵衛は金を返しに行くが、父娘はすでに立ち去っていた。 萬屋は 店の者皆で、柳田を探すが、見つからない。 暮の大掃除に、離れの額の裏か ら五十両が出る。 源兵衛は厠に立ち、そこに挟んだのだった。 正月、年始 回りの途中、番頭の徳兵衛は、湯島の切通しで、立派な武士、帰参が叶い三百 石取の柳田格之進と出くわす。 話を聞いた柳田は、何たる吉日なるぞ、明日 行くので、首を洗っておけ。 翌日、えーい、という掛け声とともに、床の間 の碁盤が真っ二つ。 両名を斬らんとしたが、主従の情を目の当りにして、柳 田の心が揺らいだ、両名を助けてつかわす。 番頭と鳶頭が吉原に行き、お絹 を身請けして来る。 父上がよろしければ、絹に異存はございません。 やが て、お絹と番頭が萬屋源兵衛の夫婦養子になり、そこに生れた子が柳田の家督 を継ぐ。

 この噺、後味が悪い。 娘の絹が吉原に身を沈めて、五十両を作ったからだ。  立川生志はリアル、絹を琴と変え、帰参する柳田が身請けに行くが、親子の縁 を切ったと拒み、帰参を承知で自害する。 歌武蔵は、古今亭志ん生、志ん朝 のやり方をほぼ踏襲している。 志ん朝は、今なら慰謝料何とかしてよ、を入 れた。 春風亭小朝、身請けした絹が言葉を失ったのを、番頭がしばしば見舞 う。 柳家花緑、二番番頭の吉之助が柳田の屋敷に通って、絹の心をほどき結 婚、徳兵衛は暖簾分けしてもらう。