民意をつかむジャーナリストの方法 ― 2018/06/19 07:09
滝鼻卓雄さんは、ジャーナリストの仕事とは、ということで、自らの経験を 語った。 民衆の意思、民意をつかむ、真意を知る方法。 最初に配属された のが群馬県の農村地帯、中曽根、福田、小渕氏の群馬三区、ホンダの50ccバイ クで走り回って、有権者の意見を聞いた。 話を聞いていると、誰に入れる地 区なのかがわかる。 世論調査よりも、一対一の差しの取材、調査が大切だ。
民意をつかめなかった最大の事件は、2016年のアメリカの大統領選挙、トラ ンプ氏の当選を予測したのは全米で2紙だけだった。 なぜ間違ったのか。 (1)州単位の調査の精度が甘かった、(2)調査から逃げ回った層をつかめな かった、(3)ラストベルトの票をつかめなかった、(4)調査に応じた人が実際 に投票するか、つかめなかった。 日本でも、こうした激変は起きるのか。 メ ディアは、それを取材できるのか。 永田町、霞が関は、安定を志向するけれ ど、変革を求める火種はごろごろ転がっている。 高齢化と社会保障費の重圧。 モリカケ事件だけにかかわって、大きな日本の社会状況を見誤ってしまうと、 日本の体制が間違った方向へ走るかもしれない。 ジャーナリズムは羅針盤だ。 情緒だけでなく、ややこしい意思の塊、民意の一つ一つに寄り添い、対面とい うシンプルな方法で、民衆の心の中の考えを聴き出すことだ。 統計と確率だ けではつかめない、ITやロボットでは駄目だ。 ジャーナリズムは、その試練 に耐え続けるほかない。
その後、滝鼻さんは「ニュースを書くこと、書かないこと」、基本的人権の壁、 実名主義からの脱落、などの問題を語った。 結論として、「塀の上を歩け」と いうジャーナリストの覚悟を配ってくれた。 その内の、いくつかは明日。
滝鼻卓雄さんの「ジャーナリズムと権力」を聴く ― 2018/06/18 07:08
14日に聴きに行った三田演説会は第706回、滝鼻卓雄さん(読売新聞東京本 社 社友)の「ジャーナリズムと権力」だった。 滝鼻さんは、私より一年上で、 昭和38(1963)年法学部政治学科卒業、読売新聞東京本社社長や論説主幹を 務められたが、私などは読売巨人軍のオーナーとして記憶している。 社長時 代、私の同期の友人、読売新聞の小谷直道君の『遺稿・追想集』の「いま 小 谷君を失って思うこと」に、「学生時代からの友人であった」と書いておられる から、新聞研究室の「慶應義塾大学新聞」で活躍されたのであろう。
「講演概略」に、「いまの時代ほど、新聞、テレビ、ウェブサイト・ニュース などのジャーナリズムと政治権力との関係が問われているときはない。連日報 道されている国家文書のずさんな管理、米大統領とメディアとの衝突、中ソに おける報道規制。 どれを取り上げても、ジャーナリズムと国家権力との対峙 が浮上してくる。 その中でジャーナリストの仕事とは何か。」とある。
滝鼻卓雄さんは、まず近々、具体的な例として6月12日のシンガポールで の米朝首脳会談を取り上げた。 2500人ものメディアが集結したが、非核化、 朝鮮戦争の終結、拉致問題、東アジアの地政学的リスクをどう取り除くのか、 それらの問題への取材態度はどうだったのか。 大きな失望を感じたのは、ト ランプ大統領の記者会見の中味だ。 大統領が金王朝維持を表明したにもかか わらず、非核化のプロセスを明確にせず、時間がなかったと逃げたことを、な ぜ執拗に追及しなかったのか。 拉致問題にふれたのは、日本人記者一人(か、 もう一人)で、大統領は問題提起をしたと述べただけで、金正恩委員長の反応 には全くふれなかった。 トランプ大統領を激怒させてもいいから、なぜ繰り 返し、執拗に追及しなかったのか。
大統領と新聞記者の関係、なぜ、こうバランスを欠いたのか。 この機会を 捉え、大統領を立往生させるほどの、質問の嵐を浴びせるべきだった。 ただ、 一部が放映されたABCのキャスターの単独会見では、大統領に「あの殺人者、 暗殺者と、なぜ手を結んだのか」とぶつけ、時間制限はあったが、完全な非核 化という言葉が入っているじゃないか、と答えさせていた。 日本の総理や官 房長官の記者会見を見ると、机の上にはノートパソコンと録音機だけ、核心を 突く質問が出ない。 押されっぱなしの記者会見で終わるのが、最近のトレン ドだ。 ジャーナリストの能力が試されている。 政府首脳とジャーナリスト、 力関係はイコールだ。 ジャーナリストが、あまりにも腰抜けで、米朝首脳会談は単なる政治ショー に終わった。 滝鼻さんが入社した1963年、朝鮮半島はまだキナ臭い状況で、 朝鮮戦争に従軍して交戦記事(社会部が担当)を書いた先輩たちがいた。 今 回、68年経った朝鮮戦争という国際事件の後始末としては、余りにも軽々しい、 権力者の発言通りに動かされた記者たち、これからどうするか。
「なまはげ」、八郎潟干拓事業 ― 2018/05/28 07:25
「帝水」で迎えた20日の日曜日は、快晴となった。 真山(しんざん)の 「なまはげ館」へ行く。 畠山茂さんによると、昭和32(1957)年にこの地 を訪れた岡本太郎は芦沢の「なまはげ」を見て、「これぞ縄文!」と叫び、日本 固有の縄文民族遺産と見抜いたという。 「なまはげ館」には、男鹿半島各地 域の観光用でないプリミティブなお面の数々が展示されていた。
その後、昨日荒天で行かなかった寒風山の山頂へ。 かつては国内第二の湖 だった八郎潟を埋め立てた干拓地、大潟村や、船川港の国家石油備蓄基地のタ ンク、男鹿半島両側の日本海を眺めた。 戦後の食糧自給政策期や、オイルシ ョック時の、国の直轄事業の結果であり、私たちが過ごした時代の記念碑である。
八郎潟干拓事業について、畠山茂さんから面白いエピソードを聞いた。 終 戦後の講和条約交渉で、最も困難だったのがオランダとの対応だった。 オラ ンダは日本によって占領されていたジャワ・スマトラなどが、戦後そのまま独 立するなどもあり、日本に対する国民感情が極めて悪く、講和条約に最後まで 難しい注文をつけていた。 賠償の代りとして技術援助に応じるなら講和会議 に参加するとの感触を得た吉田茂首相は、建設大臣に対象となるプロジェクト を考えるように指示したが、なかなか妙案がない。 次官、局長、部長、課長 と伝わって、とうとう係長、係員クラスにまで降りてきた。 当時、戦後の焼 け跡の都市区画整理事業を担当していた下河辺淳(あつし)係長が「農林省の 八郎潟干拓」はどうかと、進言した。 ワンマン首相へ説明に行くのを、みん なが尻込みしたので、下河辺係長自身で行くことになり、大磯の吉田邸に一人 で出かけた。 進言を聞いた総理はご機嫌になり、貴重だったスコッチウイス キーまで頂いてきたという。
オランダは、「神は海を造り、オランダ人は陸を造った」といわれる干拓先進 国だ。 一方、昭和27(1957)年農林省は食糧の支給率を上げるため、食糧 増産5か年計画を策定し、その中では干拓事業が重要項目で、八郎潟干拓も計 画されていたが、技術不足と資金不足により工事が進んでいなかった。 翌昭 和28年8月、政府は農林省の担当者をオランダに派遣し交渉し合意、29年4 月、デルフト工科大学のヤンセン教授とフォルカー技師が来日、一行は八郎潟 を視察し、7月「日本の干拓に関する所見」通称「ヤンセンレポート」を提出 した。 ここに八郎潟干拓事業の原型が示され、昭和32(1957)年5月1日、 八郎潟干拓事業所が秋田市に設置され、工事が着工された。
下河辺淳さんは、建設省で河川や港湾など各種の総合開発計画に関与、経済 企画庁では戦後日本における国土計画の根幹をなした全国総合開発計画(通称 「全総」)の策定に係る。 長らく国土開発・国土行政に力を及ぼし続け、昭和 52(1977)年国土事務次官に就任する。 退官後も、「全総」の策定に尽力、 阪神淡路大震災復興政策の立案に参画、委員長を務めた。 平成28(2016) 年8月、92歳で亡くなった。
木堂・犬養毅の秋田 ― 2018/05/24 07:15
藤田嗣治の≪秋田の行事≫を見て、次に向かったのが、秋田魁(さきがけ) 新報社で、前論説委員で営業局担当局長の村上昌人さんの話を聞いた。 犬養 毅、木堂は明治16(1883)年、秋田魁新報社の前身「秋田日報」の主筆とし て着任、7か月ほどの間に、健筆を振るい、各地で時局演説会を行い、「致遠館」 という塾を開いて青年に経済学を講じたりした。
私は、犬養毅が秋田に行った話は知らなかった。 『福澤諭吉事典』の「犬 養毅」の項を見ても、その記載はない。 犬養毅は、明治8(1875)年に慶應 義塾に入り、明治13(1880)年に退学した。 成績は優秀で、勉学に没入し た。 在学中から、「郵便報知新聞」記者として西南戦争に従軍するなど、ジャ ーナリストとしての手腕を発揮し始め、退学後には豊川良平と「東海経済新報」 を創刊した。 明治14(1881)年、大隈重信が福沢に人材の推薦を依頼して つくった統計院に、権少書記官として出仕するが、折からの明治14年の政変 に巻き込まれて下野した。 その頃から福沢は現実政治との距離を置くように なり、明治会堂で行われていた慶應義塾系の演説会についても塾生の出席は許 さず、また14年12月9日の犬養宛の書簡で、論者が「暴説」や「愚論」を吐 いて「無学視」されないようにと注意している。 犬養は翌15(1882)年3 月14日に結成された立憲改進党に参加することになる。 福沢は、同日の寺 島宗則宛書簡で、立憲改進党には犬養毅、矢野文雄、箕浦勝人、藤田茂吉、尾 崎行雄と塾出身の者もいるが、福沢の関与のないことを、世上の流言の出る前 に弁護してほしいと、依頼している。
犬養毅を秋田に招聘したのは、秋田日報社長、秋田改進党幹部の大久保鉄作 で、さらなる党員獲得のために紙面を改め、有力な主筆の推薦を中央に乞うた ところ、大隈立憲改進党の機関紙である報知新聞の記者犬養毅が迎えられるこ とになったのである。 犬養の派遣はまた、同党の地方における党勢拡大のた めでもあった。 犬養は、明治16(1883)年4月17日に東京を立ち、人力車 と馬で、奥羽路を北上、栗子峠、雄勝峠を越え、湯沢、横手を通り、大曲から 雄物川を舟で下って、13日目の4月29日に秋田に入った。 途中の各地で歓 迎を受け、演説会を開いたが、随所に密偵が尾行していたという。 犬養を迎 えた秋田改進党は、5月10日に大会を開き、歓迎大懇親会を催して気勢を挙げ た。
「秋田日報」で犬養と共に記者をした安藤和風(のち秋田魁新報社長)の思 い出話。 29歳の犬養は和服に角帯の着流し、背丈は低く顔色は青黒いが精悍 の気が眉宇にあふれていた。 月給は百円だといっていたが実際は五十円(小 学校長六円)。 千秋公園に近い元佐竹藩家老の屋敷を寓居にして、そこで論説 を書いて本社に送り、滅多に出社しなかった。 花柳界下米町二丁目鶴屋の名 妓お鉄を愛し、昼夜寓居に泊めて側を離さない。 しばしば執筆の支障になる ので、口述筆記をさせられたが、愛人が側にいるので皆あてられ、年少の自分 にお鉢が回って閉口させられたという。
犬養毅は、昭和7(1932)年5月9日の慶應義塾創立75年記念式典に首相 として参加し、祝辞を述べた。 そのわずか6日後、5・15事件で暗殺された。 犬養毅の率いた国民党、革新倶楽部時代の系統を引き、犬養を慕う者が多い大 館には、秋田木堂会が今なお健在で(三代目世代)毎年5月15日の木堂忌に は法要を行い、供養が続けられている。 この催しは出身地の岡山と東京だけ だという。
秋田魁新報社が所蔵されている、犬養毅の書や、後年、お鉄を気遣って出し た手紙などを見せてもらった。
中島岳志さんの語る「保守と立憲そして死者」 ― 2018/05/14 07:10
中島岳志さんの『保守と立憲』を読んで、いろいろと書いてきたが、それら のことを中島岳志さん自身が語っているのを聴くことができる。
中島岳志さんのツイッター、https://twitter.com/nakajima1975
の4月21日にリツイートされている、池田香代子さんのツイッター「100人 村 お金篇」の「世界を変える100人の働き人」の15人目として登場し、「保 守と立憲そして死者」について40分ほど話している。 私がへたへたまとめ たものが、よく理解できると思うので、ぜひ、お聴き頂きたい。
そういえば、中島岳志さんの師である西部邁さんは、1月21日に自ら死者た ちの一人となったのであった。
なお「立憲」と「死者」については、3月に下記に書いたものとの関連を強 く感じながら、読み、聴き、書いていた。
戦争犠牲者への感謝と鎮魂<小人閑居日記 2018.3.24.>
http://kbaba.asablo.jp/blog/2018/03/24/
「「ホトトギス」の「戦地より其他」を読む」<小人閑居日記 2018.3.25.>
「支那事変後期」、「匪」と「宣撫」の句<小人閑居日記 2018.3.26.>
神吉拓郎、戦時中の中学・高校生<小人閑居日記 2018.3.27.>
神吉拓郎の「ブラックバス」前半<小人閑居日記 2018.3.28.>
神吉拓郎の「ブラックバス」後半<小人閑居日記 2018.3.29.>
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