木堂・犬養毅の秋田2018/05/24 07:15

 藤田嗣治の≪秋田の行事≫を見て、次に向かったのが、秋田魁(さきがけ) 新報社で、前論説委員で営業局担当局長の村上昌人さんの話を聞いた。 犬養 毅、木堂は明治16(1883)年、秋田魁新報社の前身「秋田日報」の主筆とし て着任、7か月ほどの間に、健筆を振るい、各地で時局演説会を行い、「致遠館」 という塾を開いて青年に経済学を講じたりした。

 私は、犬養毅が秋田に行った話は知らなかった。 『福澤諭吉事典』の「犬 養毅」の項を見ても、その記載はない。 犬養毅は、明治8(1875)年に慶應 義塾に入り、明治13(1880)年に退学した。 成績は優秀で、勉学に没入し た。 在学中から、「郵便報知新聞」記者として西南戦争に従軍するなど、ジャ ーナリストとしての手腕を発揮し始め、退学後には豊川良平と「東海経済新報」 を創刊した。 明治14(1881)年、大隈重信が福沢に人材の推薦を依頼して つくった統計院に、権少書記官として出仕するが、折からの明治14年の政変 に巻き込まれて下野した。 その頃から福沢は現実政治との距離を置くように なり、明治会堂で行われていた慶應義塾系の演説会についても塾生の出席は許 さず、また14年12月9日の犬養宛の書簡で、論者が「暴説」や「愚論」を吐 いて「無学視」されないようにと注意している。 犬養は翌15(1882)年3 月14日に結成された立憲改進党に参加することになる。 福沢は、同日の寺 島宗則宛書簡で、立憲改進党には犬養毅、矢野文雄、箕浦勝人、藤田茂吉、尾 崎行雄と塾出身の者もいるが、福沢の関与のないことを、世上の流言の出る前 に弁護してほしいと、依頼している。

 犬養毅を秋田に招聘したのは、秋田日報社長、秋田改進党幹部の大久保鉄作 で、さらなる党員獲得のために紙面を改め、有力な主筆の推薦を中央に乞うた ところ、大隈立憲改進党の機関紙である報知新聞の記者犬養毅が迎えられるこ とになったのである。 犬養の派遣はまた、同党の地方における党勢拡大のた めでもあった。 犬養は、明治16(1883)年4月17日に東京を立ち、人力車 と馬で、奥羽路を北上、栗子峠、雄勝峠を越え、湯沢、横手を通り、大曲から 雄物川を舟で下って、13日目の4月29日に秋田に入った。 途中の各地で歓 迎を受け、演説会を開いたが、随所に密偵が尾行していたという。 犬養を迎 えた秋田改進党は、5月10日に大会を開き、歓迎大懇親会を催して気勢を挙げ た。

 「秋田日報」で犬養と共に記者をした安藤和風(のち秋田魁新報社長)の思 い出話。 29歳の犬養は和服に角帯の着流し、背丈は低く顔色は青黒いが精悍 の気が眉宇にあふれていた。 月給は百円だといっていたが実際は五十円(小 学校長六円)。 千秋公園に近い元佐竹藩家老の屋敷を寓居にして、そこで論説 を書いて本社に送り、滅多に出社しなかった。 花柳界下米町二丁目鶴屋の名 妓お鉄を愛し、昼夜寓居に泊めて側を離さない。 しばしば執筆の支障になる ので、口述筆記をさせられたが、愛人が側にいるので皆あてられ、年少の自分 にお鉢が回って閉口させられたという。

 犬養毅は、昭和7(1932)年5月9日の慶應義塾創立75年記念式典に首相 として参加し、祝辞を述べた。 そのわずか6日後、5・15事件で暗殺された。  犬養毅の率いた国民党、革新倶楽部時代の系統を引き、犬養を慕う者が多い大 館には、秋田木堂会が今なお健在で(三代目世代)毎年5月15日の木堂忌に は法要を行い、供養が続けられている。 この催しは出身地の岡山と東京だけ だという。

 秋田魁新報社が所蔵されている、犬養毅の書や、後年、お鉄を気遣って出し た手紙などを見せてもらった。

コメント

_ 匿名 ― 2022/01/07 17:52

こんにちわ。初めまして。

記事を読ませていただきました。犬養毅さんからお鉄への手紙も秋田魁新聞さんが所蔵していたのでしょうか?
実際にご覧になりましたでしょうか?船木 テツはわたくしの高祖母になります。
去年秋からファミリーヒストリーとして船木 テツと曽祖母のことを調べ始めました。是非、教えていただけたらと思ってます。宜しくお願い致します。

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