佐藤允彦さん、銀座ジャズピアノ事始2018/06/22 07:12

 15日は6月の第三金曜日、毎年「ジャーミネーターの会」がある。 高校時 代に、日吉の慶應高校と三田の女子高、それに私の志木高で、新聞を作ってい た仲間の会だ。 「ジャーミネーター」というのは、発芽試験器だそうで、三 校の新聞部が新人研修のために出していた研究新聞の名前だった。 洒落た先 輩(生意気な高校生)がいて、名前にしても、そんな新聞を出していたことも、 大したことをやっていたものだと思う。

 有楽町の日本外国特派員協会が会場で、今年はわれわれ昭和35(1960)年 高校卒の年代が幹事役だった。 同期で、世界的に活躍しているジャズピアニ スト、佐藤允彦(まさひこ)さんに来てもらって、トークと演奏をお願いした。  高校時代に、同じクラスだった新聞会員が、二人もいたのだ。

 佐藤允彦さん、高校1年生の時に、お父上の会社がギブアップして、自分で 食えということになった。 小さい時から、母上にピアノを習わされていた。  穐吉敏子がオスカー・ピーターソンに見出された後で、母上が時代はジャズだ ろう、アメリカへ行けば食えるという。 だが、ジャズをどう学べばよいのか わからない。 ピアノを弾いていたら、小判型の風呂の煙突掃除屋さんが聞い て、お客さんにジャズを教えてくれる人がいるという。 先生というより、米 軍キャンプのクラブにバンドを、ABCDなどのランクに分けて紹介する人で、 PXで流行歌の見開きのソング・フォリオを手に入れ、コードネームにして、4 ~5人の人に渡す、簡単なアレンジもする。 その人がピアノを弾かせ、感じ をつかめば弾けるといって、SPのレコード(3分ぐらい)を渡してくれた。 そ れを譜面にコピーして、何ページかにしたのを、練習した。 実地にやってい るところを見ればできると、スーパーカブの後ろに乗せて、銀座のキャバレー、 並木通り5丁目のカリオカ・クラブに連れて行き、バンドの演奏を見学してい なさいと言った。 12月1日から31日まで、授業が終わると、行って見学し た。 大晦日、坊や、毎日来て偉かったね、来年からバンドが替わる、という。  次のバンドが来ていて、実はピアノがいない、と言う。 ピアノなら、この子 がいる、となった。

 1月8日、親父のジャケットを着て、行った。 テナーサックス、ベース(?)、 ピアノのカルテット、顔合わせにブルースをやってみよう。 ブルース? f のブルース、イントロを弾け。 イントロ? 本当に何にも知らないんだな。  座ってろ、弾かなくていいから。 早い内はお客さんがほとんどいない、女た ちが化粧なんかしている、ナンバーワンが駄目といったら、首になる。 セカ ンド・セット以降は、お客が入って、ダンス・ナンバーになるから譜面がある。  何とかなる。 わかんなかったら弾くな、八重洲口に「ママ」というモダンジ ャズ喫茶があって、レコードかかっているから、聴きに行け。 授業が終わる と、「ママ」へ行き、5時半から6時半まで聴く、急いで駆けつけると7時にカ リオカ・クラブが始まる。 「ママ」では、同じレコードがかかる。 曲を聴 いていて、繰り返しに気付く。 7小節目に、コードが変わる。 想像力を働 かせて、だんだんと覚える。 1か月が経った。 バンマスが、もう1か月置 いてやるといった。 そこに半年いた。 それが始まり、丁稚奉公、実地で商 売を覚えた。

 母親の女学校時代の友達に、税理士の夫人がいて、夫がジョージ川口の経理 をやっていた。 ピアノがいないので、テストするから、すぐ来いと言われた。  高校2年の初めのことで、大学生になったら入れてもらうと言ったけれど、入 ったのが高校の3年から大学の1年の時だった。 高校卒業式の日も、不二家 ミュージックサロンで昼夜の公演があった。 同級生が、お前も名前を呼ばれ たぞ、と卒業証書を持って来てくれた。 司会をしていたイソノテルオが聞き かじって、それ総代じゃないか、ピアノの佐藤允彦は今日、慶應高校を首席で 卒業した、と紹介した。 のちに大学を卒業した時も、ジャズの雑誌に、佐藤 允彦は慶應大学の経済学部を首席で卒業したと書いた。 それほどジャズ・ジ ャーナリズムはいい加減(笑)。