福沢の女性論・家族論は「最後の決戦」に勝ったか ― 2005/11/12 08:32
明治33年4月15日付の『時事新報』社説「最後の決戦」(日原昌造草稿)は、 当時の社会状況を分析して、維新以後の文明化によって「有形の区域」すなわ ち物質文明においては「文明流」が勝利をおさめたが、「無形のもの」となるに したがって抵抗力が強く「文明の進歩を渋滞せしむるの憂」があると述べて、 「新旧最後の決戦とも云ふ可きものありて存するは即ち道徳修身の問題なり」 「儒教主義の旧道徳を根柢より顛覆して文明主義の新道徳を注入せん」とした。 福沢はこの「文明流」対「儒教主義の旧道徳」を、女性論では「新女大学主 義」対「女大学風の教育」として展開した。 それは福沢の近代化構想の一端 であり、「女大学」(「女大学」的規範)は福沢が構想する日本の近代化とは相容 れない存在として強く認識されていた。
福沢の女性論・家族論は、山川菊栄、堺利彦、福田英子、与謝野晶子から、 昭和初期の金子(山高)しげり、戦後の本間久雄に至るまで、高い評価を受け続 ける。 福沢の指摘している問題点が今日的であり続けるということは(馬場 註・それを端的に示すのは、福沢のいう「男女共有寄合の国」「日本国民惣体持 の国」と、「男女共同参画社会」担当大臣の存在)、とりもなおさず、それらの 問題点が近代化の過程で解決されてこなかったことを示している。 福沢の女 性論・家族論は、「最後の決戦」に敗れたのだ。
明治10年代半ば以降「儒教主義の旧道徳」が示した「女大学」風の“新し い”女性像では、日常的な家庭生活自体(夫への内助・子育てなど)が国を担う 女性の役割として位置づけられ、女性と国家とのかかわりが明らかになった。 それは日清、日露の戦争を経て、特に顕著になり、国民総動員体制へと向った のだった。
福沢の説くような、政治経済を学び、人間交際の場で世務諮詢を行えるよう な女性は、福沢が予想したよりはずっと限られた階層でしかなかった。 福沢 が開催したような集会は広がらず、結局は慶應義塾には女学校が創立されなか った。(馬場註・昭和13年の女子聴講生1名から戦前合計でも聴講生9名、幼 稚舎、中等部を含めて正式の入学と、女子高校の開校は、戦後のことである)
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