三井家の謎2005/11/08 09:11

 財閥についてよく知らないのも、『古事記』や神話に弱いのと同じ理由かもし れない。 三井家の初代は伊勢松坂在住の三井高利(たかとし1622-1694)、延 宝元(1673)年に江戸本町1丁目に呉服店を開業し、京都の室町通蛸薬師町に仕 入店を構えたのが、三井越後屋の創業という。 10年後の天和3(1863)年には 駿河町の南側、現在の三越本店の地に移り、両替店を併設した。 「現銀掛け 値無し」店先売り定価販売の新商法が、江戸市民のニーズに合い大発展、家産 を築いた。 高利と妻かねの間には、10男5女(ほかに男の庶子1人)があった。  高利の死後、遺産は分割せず共有相続とし、各人の持分(割、割歩といい、長男 を最大とする不均等配分)を決めておくという形をとり、これを基礎として合計 11軒の三井家が創出された。 その構成は、高利の実男子のうち6人を初代と する本家(ほんけ)、および長女の夫、五男の長女の婿養子、五男の跡目筋で長 男高平の婿に当たる異姓小野田家の3軒およびのちに加えた異姓の2軒(家原家 と長井家)を連家とするものである。 幕末期に小野田、家原、長井の3連家が 絶家となったが、明治25(1892)年同3家再興の名目で三井姓連家が創設され、 11家構成に復した。 家系としては長男家の優位性を保ちつつ、これら男系の 単独相続によって継承される複数家系全体の結合が三井家である。

 江戸時代、伊勢商人である三井家は、「江戸店(だな)持ち京商人(あきんど)」 と呼ばれた典型的な豪商として京都に居住し、京文化の担い手となった。 そ れぞれの家は、居住地の京都や松坂の町名、あるいは家名、家相互の位置関係、 東京移住後の地名などから、惣領家は北家、九男家は南家、次男家が中立売家(の ち伊皿子家)、三男家が新町家、四男家が竹屋町家(のち室町家)などと呼ばれた。  三井記念美術館が所蔵する美術品は、11家のうち、北家、新町家、室町家の三 家から寄贈されたものだという。 野次馬は、ほかの八家もそれぞれに美術品 を所有していただろう、それはいつどうなったのか、と、つい余計なことを勘 繰ってしまうのだ。 こういうのを「下種の勘繰り」という。