国際美人コンテストに初参加 ― 2006/06/08 07:47
芸者、セレブと来た「明治美人帖」、つぎは「女学生ブーム」だった。 明治 32(1899)年高等女学校令が発布されて、女子高等教育の道が開かれ、各県に37 校が出来た。 芸者は古い、女学生がトレンディーと、美人観が転換した。 「若々しさ、清純さ、処女性」が賛美される。 化粧の仕方も、芸者の本化粧 から、薄化粧や飾らない天然の美しさが良いとされ、髪型も日本髪から束髪に 変わっていく(女学生は長い髪に白リボン)。
明治40(1907)年9月、アメリカの新聞社(シカゴ・トリビューン)から国際的 な美人コンテストの呼びかけがあった。 アメリカ、イギリス、カナダ、スエ ーデン、スペイン、そして日本の6か国の代表から、世界一の美人を決めよう というのである。 女優、モデル、芸者等は参加不可。 日本では大手町の時 事新報社が「日本第一の美人の写真を募集」の大見出しで募集を開始、全国23 の地方紙も協力した。 半年後、7,000人の応募があり、各都道府県から代表 5人ずつ、250人の写真が東京に集まった。 第二次審査には、彫刻家・高村 光雲、俳優・河合武雄、人類学者・坪井五郎、洋画家・岡田三郎助、女形俳優・ 中村芝翫(しかん)らが当った。 一等賞に選ばれたのは、福岡県出身の末広ヒ ロ子、16歳、女子学習院中等部3年生、小倉市長の娘だった。 本人が知らな い内に、義兄がこっそり応募したのだった。 時の学習院院長は乃木希典、激 怒して退学処分にした。 時事新報は社説で抗議し、末広ヒロ子を擁護、乃木 院長も賞品を受け取らなければ許すと妥協したが、同級生などの妬みもあり、 結局ヒロ子は自主退学を余儀なくされた。 後に、乃木はヒロ子を日露戦争の 戦友・野津道貫元帥(侯爵)の息子に紹介し、仲介の労を取り、二人は結婚、乃 木は媒酌人をつとめたという。
その事件にも表われているように、当時の女学校は良妻賢母主義の花嫁養成 学校の性格が強く、そうした流れは現代の女性の生き方にも影響を与えている、 と佐伯順子教授は「女学生ブームの限界」を指摘した。
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