ロンドンで福沢が発見したもの ― 2006/10/27 07:15
まだ、河北展生さんの「幕末10年間の学塾経営の苦心談」の続きである。 文久3(1863)年、二年交代の江戸詰家老として出府していた奥平壱岐は、 藩主昌服に子がなかったので、伊予宇和島藩主伊達宗城(むねなり)の三男儀 三郎(のりさぶろう)を奥平家の養子に迎えた。 中津藩最後の藩主奥平昌邁 (まさゆき)となったのがこの儀三郎である。 宇和島は開国論の薩摩とも仲 がよく、中津の国元で攘夷論が沸騰し、家老を辞めさせる運動が起こる。 文 久3年5月、壱岐免職(奥さんは憤慨して(恥じて、という説もある)自殺)。 のちに壱岐は薩摩藩と連絡を取り、勝海舟が仲立ちになって、薩摩に千石で迎 えられる話も出たが、中津藩の反対で駄目になった(慶應2年)。
文久3年、福沢に新銭座からまた鉄砲洲に戻れという話が出て、秋ごろ奥平 家の中屋敷に引っ越す。 五間続きの長屋一棟を福沢塾に与える厚遇は、単に 奥平昌高の隠居所が空いたというだけではない。 文久3年8月、京都で薩摩 藩と宇和島藩を中心とする武力クーデターが起こり、薩摩はご隠居昌高と、宇 和島は養子儀三郎と関係がある。 奥平壱岐の政略を防ぐために、福沢を呼び 戻す意図があった。
翌元治元年、福沢は中津に帰省、小幡篤次郎ら6人の青年を連れて来る。 そ の前年には『写本 西洋事情』を書いていて(元治元年5月に写した写本が発 見された。『西洋事情』の刊行は慶應2年冬)、そこには学校のあり方が書いて あった。 ヨーロッパには学校のない所はない、政府が建てるもののほかに社 会人が金を出し合ってつくる学校(平人、社中を結び学校を建て)、小学校から 大学校まで段階的に教育している、など。 ロンドンで松木弘安と大きな本屋 に行き、小学校の教科書を見て、科学的な教育のステップを知る。 再度のア メリカ行きの目的は、学校の教科書を買うことにあった。 福沢は、私立の学 校を作りたいと思い、医学や造船学でなく社会科学的なものを勉強する必要を 感じていて、これからの洋学の先端を切ることになる。 ロンドンでの発見は、 福沢の生涯を大きく決めた、と河北展生さんは語った。
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