父・母の歌っていた歌 ― 2007/04/19 06:48
家人は「西条山は霧ふかし。筑摩の河は浪あらし。」(「川中島」)を知ってい た。 母親が歌っていたそうだ。 お手玉の時に歌ったということも思い出し た。 そういえば義父は「おーれーは村中で一番 モボだといわれた男」とい うエノケンの「洒落男」が得意だったそうだが、これは『日本唱歌集』とはジ ャンルが違う。
『日本唱歌集』には、知らない歌もある。 たとえば「空も港も夜ははれて」 (「港」)と同じ見開きページにある「火筒(ほづつ)の響き遠ざかる 跡には 虫も声たてず 吹きたつ風はなまぐさく くれない染めし草の色」という「婦 人従軍歌」。 五番は「味方の兵の上のみか 言(こと)も通わぬあた迄も い とねんごろに看護する 心のいろは赤十字」、「あた」は「仇」(あだ)、『広辞苑』 には「室町時代まではアタと清音」とある。
戦後教育の育ちだから、「皇御国(すめらみくに)」「来たれや 来たれ」「元冦」 「勇敢なる水兵」「水師営の会見」「橘中佐」「児島高徳」「広瀬中佐」などは知 らない。 わずかに山田美妙斎作詞の「敵は幾万」は、出だしだけを知ってい た。 「敵は幾万ありとても」と、父が歌っていた。 ただ、その後に、「桃か ら生まれた桃太郎(オ)」「お月さん」「(何)て間がいいんで(しょう)」「正直 爺さんポチ連れ(て)」「敵は幾万ありとても」と最初に戻り、果てしなくぐる ぐる回るエンドレス・ソングになるのだった。
母が歌っていたので思い出すのは、「この道」「城ヶ島の雨」「からたちの花」 「待ちぼうけ」である。 みんな北原白秋だった。 『日本唱歌集』にはない から、女学校で習ったのだろう。
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