(覆された宝石)のやうな朝 ― 2007/04/09 07:53
昨8日はお仲間二人と赤坂のTBSに行き、落語研究会の定連席券を無事に確 保、また一年楽しめる(ブログ読者は落語の記録を読まされる)ことになった。 先月28日にその発売順整理券をゲットする行列をした時、読んでいたのが昨 年8月亡くなった山村修さんの『書評家〈狐〉の読書遺産』(文春新書)だっ た。 7月号まで連載された『文學界』の「文庫本を求めて」をまとめたもの だ。 私もアマチュアとして本の紹介のようなことをずっとやっているわけだ が、山村さんのものを読むと、手放しに脱帽、おそれ入る以外にない。 二冊 ずつを組み合わせて評する、その取り合わせがまた、絶妙なのである。
篠田一士著『三田の詩人たち』(講談社文芸文庫)を、「大の字のつく読書家」 篠田ならではの着眼があると評している。 その例に、久保田万太郎の一句、
だれかどこかで何かさゝやけり春隣
の情景やポエジーに近いものとして、西脇順三郎の「天気」という詩を挙げて いることを、取り上げている。
天気
(覆された宝石)のやうな朝
何人か戸口に誰かとささやく
それは神の生誕の日
山村修さんは書く。 「この詩によめる春らしくキラキラとふりそそぐ太陽 の光や、そっと聞こえてくる人々のささやき声といった情景を、久保田万太郎 の句とむすびつけ、「似ても似つかない」どころか、あらためて万太郎の句にみ ちる清新な春の光と声とを感受させるのは篠田一士の力わざだ。そしてそれこ そが〈文学的大食漢〉の真骨頂であると私は思う。」
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