福沢の慧眼と日本一の「時事新報」2007/05/29 07:47

 鈴木隆敏さんは講演「時事新報は今・・・」で、1882(明治15)年創刊の 「時事新報」が今年125周年なのと同じく、大隈重信の早稲田大学(その前身 の東京専門学校)、日本銀行も125周年であることを指摘し、その三つが明治 14年の政変の産物であることに触れた。 日本銀行も、政府の財政を担当して いた大隈重信が準備していたものを、政変後、大隈の後任の大蔵卿になった松 方正義が永代橋のたもとのコンドル設計の建物で開業することになった。 興 味深い指摘である。

 福沢は「時事新報」の創刊時から、持ち前の金銭感覚と経営手腕を発揮し、 1,400人の予約者名簿、5千部でスタートさせている。 福沢は広告にも力を 入れた。 創業5年目の1886(明治19)年8月7日、第1面に広告を満載し、 「日本一の時事新報に広告するものは日本一の商売上手である」という広告の コピーまでつくった。 広告代理店(サンセイ?社)も始めたということだ ったが、これは知らなかった。 つまり最初から、新聞事業の車の両輪である 「販売」と「広告」に力を入れていたわけで、鈴木隆敏さんは福沢の慧眼に頭 を下げるのみだと語った。

 「時事新報」は、福沢が担当したその論説で信頼を得、大正中期までは“日 本一の「時事新報」”であった。 部数“日本一”は一時のことであったが、そ の内容と言論性の高さで“日本一”だった。 それは「独立不羈、不偏不党」 の精神で、その存在をかけ、主張すべきことは主張した福沢先生の余慶だと鈴 木さんは言った。 鈴木さんと同期の慶應の卒業で、産経新聞社会長(時事新 報社代表取締役)の清原武彦氏は日頃「“ONLY ONE”の新聞をめざせ」と言 っているそうだ。 新聞ジャーナリズムが揺らいでいる今日、その精神を持っ た“ONLY ONE”の「時事新報」をお預りして、産経新聞がその精神を受け継 いでいることは、きわめてありがたいことだと、鈴木隆敏さんは講演を結んだ。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック