辞典・事典類の【文覚】「もんがく」2010/10/25 06:49

 『広辞苑』…平安末期~鎌倉初期の真言宗の僧。 俗名は遠藤盛遠。 もと 北面の武士。 誤って袈裟御前を殺して出家し、熊野で苦行したという。 後 に高雄山神護寺を再興。 東寺大修理を主導したほか、源頼朝の挙兵を助勢。  幕府開創後その帰依を受けたが、頼朝没後佐渡・対馬に流罪。 生没年未詳(一 説に1139~1203)。

 『日本史事典』だと、もと上西門院(鳥羽天皇の皇女)に仕えた武士、18歳 のとき源渡の妻を誤って殺し、出家。 神護寺復興のため後白河天皇に奉加を 強要し、怒りにふれて伊豆に流された。 同地で源頼朝に挙兵を促し、のちそ の助力で神護寺を再興。 1199年頼朝の死後に佐渡に流され、のちまた鎮西に 流され同地に没したといわれる。  (「鎮西(ちんぜい)」は、九州の称。743~745年、大宰府を鎮西府と改称し たからいう。)

 『日本歴史大事典』(上川通夫)によれば、(1139~1203)平安末期から鎌倉 前期に勧進上人(かんじんしょうにん)として活動した真言宗の僧。 もと摂 津国渡辺党の武士で遠藤盛遠といい、鳥羽天皇の女(むすめ)上西(じょうさ い)門院に仕えた。 諸国霊山で修行し、1168年(仁安3)神護寺復興を企図。  1173年(承安3)後白河上皇に荘園寄付を強要し、一時伊豆国に配流。 源頼 朝に挙兵を促したといわれ、院の仲介役を果したとの説もある。 1182年(寿 永元)頃から院・頼朝双方より荘園等の寄進を得、神護寺復興を実現した。 文 覚が作成した1185年(元歴2)1月の起請(きしょう)は、中山忠親が清書し、 院が朱の手印を押捺したもので、国家権力下の模範的な寺院像ともいうべき内 容の寺院法である。 東寺、西寺、四天王寺などの復興事業を手がけた。 理 想主義的かつ行動的な諸事業は、つねに権力中枢の動向と関係したらしく、後 白河院や頼朝の死後、後鳥羽院や源通親(みちちか)らに疎まれ、佐渡ついで 対馬に配流の途次、九州で死去した。 神護寺背後の山頂に墓所がある。

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